数日後。

通帳を確認して、私は深くため息をついた。

電気代の請求書、家賃の引き落とし……どれも待ってはくれない。

「……やっぱり、電話してみるしかない」

名刺を取り出し、震える指で番号を押した。

* * *

指定されたビルの前に立った時、心臓が破裂しそうなくらい高鳴っていた。

華やかなネオンの光。ドアの向こうからは笑い声と音楽が漏れてくる。

「……場違いだ」

引き返したい気持ちを抑え、重い扉を開けた。

出迎えてくれたのは、落ち着いた雰囲気の女性だった。

おそらく「ママ」と呼ばれる人だろう。

「藤田さんね? よろしくね」

柔らかな笑みを浮かべながらも、じっと私を値踏みするように見ている。

「経験は?」

「……ありません」

「ふふ、そうでしょうね。真面目そうだもの」

ソファに座らされ、いくつか質問を受けた。

家族構成、昼の仕事、そしてなぜここに来たのか。

「借金があって……どうしても返済を急ぎたくて」

正直に答えると、ママは少しだけ目を細めた。

「無理に笑わなくていいわ。あなたはそのままでいい」

そう言われ、胸の奥が少し温かくなった。

「源氏名は……そうね、“さくら”にしましょう。今日からあなたは“さくら”よ」

その瞬間、私の中で何かが切り替わった気がした。

優美ではなく、“さくら”として夜の街に立つ覚悟。

でも心のどこかで——
「こんな世界に入ってしまって、本当に大丈夫なのかな」
という不安が、いつまでも消えなかった。

* * *

初出勤日

制服代わりに渡されたワンピースに袖を通すと、鏡の中には自分じゃない誰かがいた。

「緊張してる?」

控室で隣に座っていた女の子が、にっこり笑った。

「は、はい……」

「大丈夫だよ。最初は誰でもそうだから」

彼女の軽い口調に、少しだけ肩の力が抜けた。

——そして、店の扉が開く。

煌びやかな照明、聞き慣れない笑い声とグラスの音。

「いらっしゃいませ」と声を合わせた瞬間、心臓が跳ねた。

「さくらさん、あっちの席お願い」

黒服に呼ばれて、足がすくむ。

テーブルにはスーツ姿の男性二人。
私は恐る恐る隣に座り、作り笑いを浮かべた。

「はじめまして、“さくら”と申します」

声が震えていないか不安だった。

「若いねぇ。学生さん?」

「い、いえ……昼間は事務の仕事をしています」

会話の糸口を探すのに必死で、手汗が止まらない。
でも、相手は意外と優しく話を合わせてくれた。

「昼も夜も働いて大変だね」

その言葉に、思わず目頭が熱くなった。

笑顔を作りながらも、胸の奥では「早く帰りたい」と叫んでいた。

* * *

夜が終わり、控室で着替えながら深く息を吐いた。

「……疲れた」

まだ何も掴めていない。
けれど、これを続ければ返済はきっと早く進む。

通帳に並ぶ数字を思い浮かべながら、私は自分に言い聞かせた。

「もう少しだけ……頑張ろう」

——こうして、優美の“さくら”としての生活が始まった。