『あなたがどれほど大切にされていても……続けるのはきっと簡単じゃない』

その言葉が胸に突き刺さったまま、私は動けないでいた。

「優美」

河内さんが近づいてきた。

「今日はどうだった?結構頑張ってたな」

河内さんを見ることができない。

「はい……私なりにやってみました」

「続けられそうか?」

続けるということは、あの女の人とまた会うということ。

そして──河内さんの世界にいる自分が、どれほど場違いかを思い知らされること。

「続けるかは考えさせてください」

茶道どころではない。

河内さんは私の顔を覗き込んだ。

「大丈夫か?」

河内さんの顔を見ると胸が苦しくなる。

「ちょっと疲れただけです」

「……もう帰ろう」

車の中で私は何も話せなかった。

あの女性の言葉が頭の中をぐるぐる回る。

『家のために結婚する運命』

『簡単には結ばれない関係』

マンションに着いて河内さんの部屋に入ると、玄関でぎゅっと抱きしめられた。

「無理させて悪かった」

「いえ……とてもいい経験になりました」

「私、着替えます」

別室で着物を脱ぎながら、鏡の中の自分を見つめた。

やっぱり私は、この世界の人間じゃない。

広い豪華なリビング。

ソファで河内さんが寛いでいる。

「ここで休んでゆっくりしよう」

河内さんがそう言った時、私の中で何かが弾けた。

「申し訳ありません。今日は自宅に帰って横になります」

「そうか……」

「着物はクリーニングに出してからお返しします」

「それはお前にあげたものだから、返さなくていい」

「こんな高そうな着物……私には勿体ないです」

河内さんの顔色が変わった。

「何言ってるんだお前」

立ち上がって私の目の前に来た。

「何があったか言え」

鋭い目つきだった。

「河内さんは社長の息子で、私は借金まみれの事務員です……」

「それが何だ」

「違いすぎるんです。身分や立場が」

河内さんは驚いた表情を浮かべた。

「今日、茶道教室であの方に言われました。河内さんは家のために結婚する運命だって」

「俺はそんなつもりは——」

「今はそうでも……」

声が震えてしまった。

「いずれ河内さんのご両親が、私みたいな女性じゃダメだって言い出したら……河内さんはどうするんですか?」

河内さんは何も答えられなかった。

「私、怖いんです。いつか捨てられるのが……」

「優美…」

「だから、今のうちに終わらせた方がいいんです」

そのまま私は河内さんの家を飛び出した。

「優美!待て!」

河内さんの声を無視して、マンションを出た。

初めての恋愛に浮かれて、現実が見えてなかった。

河内さんは副社長で、私は借金を背負った女。

「恋なんかしなきゃよかった…」

私はスマホの電源を切った。

* * *

翌朝、私は意を決して副社長室に向かった。

ノックをした。

「はい」

いつもの冷静な声。

「藤田です。お話があります」

「……入れ」

ドアを開けると、河内さんが険しい顔で立っていた。

「なんで連絡を無視した」

「スマホが壊れたんです。それより……重要なお話があります」

私は深呼吸をした。

「借金はちゃんとお金で返済させてください。なるべく早くお返しできるよう努めます」

「は……?」

河内さんは戸惑っていた。

「それと——」

私は心を鬼にした。

「今月いっぱいで、ここを退職します」

「何言ってるんだよ……」

「実家に帰ることにしました」

嘘だ。でも、これ以上ここにいたら……

「優美」

河内さんが一歩近づいた。

「俺と関係を切るつもりか?」

関係を切りたいわけじゃない。でも——

「河内さんのためです」

「俺のため?」

「はい。私みたいな女性と付き合ってたら、河内さんにとってマイナスにしかなりません」

河内さんの表情が変わった。

怒りとも悲しみともつかない表情。

「そんなことは——」

その時、ドアがノックされた。

「副社長、社長がお呼びです」

「……わかった。今行く」

河内さんは渋々私の横を通り過ぎて行った。

私は私らしい人生を歩むんだ。

その時、目から涙が溢れた。

それを拭って、副社長室から出た。

今ならなんとか引き返せる……。