「藤田さん、これ今日中ね」

また机にファイルが積まれる。

毎日会社の先輩達に仕事を押し付けられ、残業だらけの毎日。

断れない性格が仇となる。

残業を上司に指摘されて、それを陰で笑う先輩達。

でも、たいしてスキルもない私は転職する勇気はない。

それどころか、実家の父の会社が潰れて借金まみれだから私まで返済に追われてる。

休みの日はラウンジで働く。

休む暇もない。

* * *

日曜の夜のラウンジ。控えめな灯りとピアノの旋律が、店内を柔らかく包んでいる。

私は「さくら」として働き、黒服に呼ばれるたび席を移っていた。

「さくらさん、新規のお客様にお願いします」

黒服に促され、私は一礼して席に向かう。

そこにいたのは、一人でグラスを傾ける男性。

背筋の通った姿勢、仕立ての良いスーツ、静かな所作。

ただ座っているだけなのに、場の空気が変わっていた。

「いらっしゃいませ」

私は慣れた調子で声をかけ、グラスにウィスキーを注ぐ。

いつも通りの接客のつもりだった。

けれど、彼の視線に気づいた瞬間、息が止まった。

強いのに、どこか深く揺らいでいて……見慣れたはずの客の目とはまるで違う。

「君は、名前は?」

「……“さくら”と申します」

「さくら、か」

彼はその名を口にすると、わずかに微笑んだ。

私は軽く会話をつなごうとした。

けれど彼はほとんど言葉を返さず、ただじっとこちらを見ている。

黒服が次の子を呼ぼうと近づいたとき、彼は静かにグラスを置いた。

「——この子で」

黒服は一礼し、他のホステスを下げた。

気づけば、私ひとりだけが席に残されていた。

「え……私でいいんですか」

思わずこぼれた声に、彼の瞳がまた私をとらえる。

「君がいい」

その瞬間、胸の奥がざわめいた。

何故かこの人に選ばれてしまった。

一体私のどこを気に入ったのだろう。

「ご指名……ありがとうございます」

そのまま彼はあまり語らないまま、暫く私の横にいた。

彼が帰る時、

「また来る」

そう私に言い残して、店を去った。

不思議な雰囲気の人。

彼の事がすごく気になった。

* * *

数日後、会社に出勤したら同じ部署の人達が何か話していた。

「今日副社長来るらしいよ」

「え!?海外から帰ってきたの?」

「ええ!楽しみ!」

副社長……

見た事がなかった。

どんな人だろう。

フロアも違うし、海外にいる事が多い人で、噂には聞くけど入社してから一度も見た事がなかった。

あまり気にせず、そのまま仕事を黙々とこなしていた。

暫くすると、周囲が少しどよめいた。

スラっとした気品のある雰囲気の男性が入ってきた。

どこかで会った事ある……あの人……。

嫌な予感がした。

その時、彼と目が合った。

あ、この前お店に来たあの人だ……!

ヤバい!うちの会社の人だったの!?

私は目を逸らしてパソコンの影に隠れるように仕事をしていた。

すると、ポンっと肩を叩かれた。

「君、ちょっと来てくれる?」

無表情だけど怖い。

血の気が引いた気がした。