和道が恋に踏み出せない理由は、教師という立場の鎖に縛られていることもあるが、もう一つ理由があった。それは、昔、恋したある女の子との思い出が後悔で塗り替えられてしまったからだった。
あれは、桜が舞い散る季節のことだった。まだ和道が幼い頃の話だ。公園で、スケッチブックに一生懸命、目に見える風景を描いていた。
「ねえ、何描いてるの」
後ろから、和道と同じ年くらいの女の子が話しかけてきた。ポニーテールがよく似合っている子だった。和道は、後ろを振り向く。元気に話しかけてくるその子に、人見知りな和道は戸惑った。
「...えーと、公園...」
「見せて、見せて」
そう言い女の子は、彼のスケッチブックを覗き込んだ。すると、目を輝かせた。
「わあ、すごいね。絵上手なんだね」
女の子の、満面の笑みに和道の心は、今までなかった初めての感情が芽生え始めた。心がざわつくような。これが何かは理解できない。
「...ありがとう」
「ねえ、私、みんなから、はあちゃんって呼ばれてるの」
女の子は首を傾げる。それは、貴方の名前も教えてと言う意味を含んでいた。それを察した。
「はあちゃん...。俺は、皆からずーくんって呼ばれてる」
「ずーくん。ずーくん、良い名前だね」
その日、出会ってから公園で毎日のように一緒に過ごしていた。かくれんぼしたり、一緒に絵を描いたり、花で花冠を作ったり。2人にとって、かけがえのない時間だった。その時間が音を立てて崩れていくことも知らずに。ある日、晴天で、彼女が不器用ながらも、和道に花冠を作っていた。
「できたっ、ずーくん座って」
彼女に促され、彼は芝生の上に腰を下ろす。彼女は、両手で彼の頭に花冠をのせる。彼は戸惑いながら彼女に聞いた。
「...はあちゃん...こ、これ」
「それ、ずーくんにあげるっ」
彼女は、満面の笑みで答えた。彼女の楽しそうな表情に、彼は口元が緩んだ。彼女に対する気持ちが、子供ながらに怖いほど深くなっていく感覚があった。
「...ありがとう」
はにかみながら彼は答えた。彼女は、彼の頭に手を差し伸べ、優しく頭を撫でる。
「ずーくんって、可愛いね」
「な、何っ...うぅ」
彼女に言われたことに否定が上手く出来ず、顔を赤くして照れてしまった。誰かに可愛いなんて初めて言われたのだ。
それから数ヶ月経った。夏休みの期間だ。2人は、図書館で一緒に夏休みの宿題をしたり、公園で遊んだり仲を深めていた。

蝉の鳴き声が鳴り響く中、この日は一緒に公園で遊んでいた。この時期は天気が不安定だ。その日は1日中晴れ予報であったが、雲行きが怪しくなりポツポツと雨が降り始めてきた。2人は急いで土管に駆け込む。
「はあちゃん...急に雨降ってきちゃったね」
「うん...すぐに止んでくれたらいいのに」
雨は弱まるどころか、更に土管を強く叩きつける。雨音が強く響く。彼女の身体は冷え、寒くて震えていた。それに気がつき、彼女に近寄り彼女の頭を自分の肩に誘導させる和道。
「...はあちゃん、これで少しはいいよね」
彼の言葉に、彼女は小さく頷いた。彼女の頬も彼の頬もどこか赤く染まっていたが、お互いに気が付かなかった。雨が止むと、2人は土管から出た。
「ずーくん、その花冠大切にしてねっ」
「うん、絶対大切にする。明日も会おうね」
2人は手を握り合い、約束をして笑い合う。家に帰り、自室に行き新品の匂いが漂う勉強用机に、大事そうに花冠を置く。椅子に座り頬をつき、その花冠をひたすら見つめる。
「(はーちゃん...)」
机に置かれていたスケッチブックを手に取り、絵を描き出した。はーちゃんが楽しそうに花冠を作っていた風景を思い出しながら。
次の日、和道はまた公園へ足を運んでいた。いつしか、公園へ来る目的が絵を描くよりも彼女と会う目的が彼の心の中で大きくなっていた。公園の入り口に彼女の姿が見えると、彼は笑顔で手を振った。
「ずーくんっ」
彼女は駆け寄ってくる。彼女の笑顔はいつも太陽のように輝いている。その笑顔を見ると、疲れも嫌な事も何もかも吹き飛ぶ。
「はーちゃん、今日何して遊ぶ、それか今日ははーちゃんに花冠作ってあげる」
首を傾げると、彼女は元気に頷いた。和道は彼女の手を握り芝生が広がっている場所へ導いた。
「ねえ、ずーくん、描くの得意だよね」
芝生に向けられていた彼の視線は、すぐに彼女に向けられる。
「う、うん」
「じゃあさ、今度私を描いて持ってきてよっ、ねっ」
笑顔を向けられ、断る気にもなれなかった。彼は、頷くとまた視線を芝生へと戻した。赤い頬を隠すかのように。数分経つと、彼は立ち上がり両手で花冠を持ち上げ、空にかざした。彼女の頭に優しく花冠を乗せるしと、彼女は嬉しくて彼に抱きついた。
「ち、ちょ、はーちゃん」
「ありがとう、ずーくんっ、だいすき」
初めて聞いた彼女の言葉に、一瞬戸惑ったが和道も彼女を抱きしめ返す。
「うん。俺も、はーちゃん大好きだよ」
2人が出会ってから数ヶ月が経ち、学校の帰りに毎日、公園により2人は会っていた。彼女は和道とは違う学校に通っており、家庭に複雑な事情を抱えていた。そのため、家族から逃げるように毎日公園にきていた。和道も、両親が放任主義で、寂しい気持ちが溜まっていた。それを打ち消すように、絵をひたすらに描くため公園に来ていた。
季節は移り変わっていた。夏が終わり秋へ色付いていた。和道は頻繁に公園へ絵を描きに来ていたが、彼女と会うことはあまりなかった。道端に落ちていたどんぐりを拾い観察していると、聞き慣れた声がこちらに近づいてきた。
「ずーくんっ」
その声に反射的に反応し、どんぐりを持っていた手の力が緩まり、どんぐりは音を立てて地面に落ちる。和道は、視線を彼女に向ける。
「はーちゃん」
「ごめんね、なかなか来れなかった。でも、ずーくんに会えて嬉しいよっ」
「はーちゃっ...うっ」
彼女を見た瞬間、何故だか涙が溢れてくる。彼女は和道の異変に気がつき、雫が落ちる彼の頬に触れ、拭った。彼女は心配そうな顔を浮かべる。
「どうして、ずーくん泣いてるの」
「ごめん、はーちゃん。もう2度とはーちゃんに会えないかと思って、もう大丈夫だから」
彼はまた泣きそうにながらも、彼女を安心させようと笑顔で答える。すると、彼女は彼の頬に手を置いたまま、彼に顔を近づける。すると、一瞬だけ唇が優しく触れ合った。子供らしい純粋なやり取りだった。
「ずーくんがもう泣かない魔法だよっ」
和道は言葉を失う。初めてのキスのなんとも言えない感覚。だが、それ以上に彼女への気持ちが深くなり、底がつかないような感覚。
「はーちゃ...…ん」
だが次の彼女が発した言葉で全てが現実に引き戻されてしまった。
「ねえ、ずーくん、前、私の絵描いてくれるって言ってたよね。見せて」
和道は、後ろに隠していたスケッチブックを持ってに力が入る。本当は、彼女に見せるために彼女を描いた。だが、キスされた今彼女に絵を見せるのが恥ずかしくなってしまった。和道は、彼女に意味のない嘘をついた。
「あ、ごめん。まだ描き終わってなくて」
嘘をついた。だが、彼女は自分を描いてくれた絵を見たいがために、後ろに回り込み、ちらっとスケッチブックを覗き込んでしまう。そこには、花が咲くように美玲が描き込まれていた。だが、勝手に見られた事が嫌だった。
「いいじゃん、これ私...」
彼女が顔を見上げると、そこにいたのはいつもの優しい和道ではなかった。彼女を見下ろす彼の目は、鋭く冷たかった。彼の中で、彼女に対して、友達なのに勝手に覗いてくるという行動が許せなかった。それと同時に、恥ずかしさもあったのかもしれない。そして、彼は自分の中にある沸々と煮えたぎる感情に任せ勢いよく彼女の頭を叩いてしまう。
「辞めろよっ、勝手に見ないでっ、お、お前なんかっ」
「ずー...くんっ」
彼女の涙を見た時、和道は自分を抑えようとしていた。だが、勝手に絵を覗かれて裏切られたという気持ちで自分の本心とは違う言葉を吐いてしまう。
「お前なんか大っ嫌いだっっ」
その言葉はナイフとなり、彼女の心をズタボロに引き裂いた。自分の発言に、後悔し居た堪れなくなり、彼女の泣き声が背後から聞こえてくる。だが和道は、両手でスケッチブックを強く抱きしめ、公園から去って行ってしまった。謝る事も仲直りする事もなかった。
それから数日間、ずっと和道は、彼女の事ばかりを考えていた。絵を見た時のキラキラした目。泣かない魔法をかけてくれた時の柔らかい声。美玲が大事な存在だと、改めて気が付いた。謝ったとしても許してくれる保証はない。
「(行かなきゃ、謝らなきゃ)」
ベッドから重い腰を上げ、立ち上がりスケッチブックを手に持ち家を駆け出した。彼女に会えるのかもわからないのに。
公園に着くと、彼女は見当たらなかった。絵を描いて、時間が過ぎればいつかきてくれると自分の中で信じていた。だが、時間が経っても彼女は現れなかった。それでも必死に絵を描き続ける。和道が気がつくと、既に空はオレンジ色に染まり、鈴虫が鳴いている。今日はたまたま来なかっただけだよね、と自分に言い聞かせる。ザクザクと音を立てて枯葉を踏見ながら、帰路へつく。その後も、時間に余裕がある時は公園に立ち寄っていた。だが、彼女が姿を現すことはなかった。
そして数ヶ月が経ち、街は白く染まり、新たな年を迎えた。結局、彼女の情報を何も得れないままだった。和道は、数ヶ月前に描いた彼女の絵を見る。悲しい程に蘇ってくる彼女との記憶。嘘をつき、最終的に彼女を傷付けた。身体に触れる雪がいつも以上に冷たく感じる。この日も彼女に会えないかと公園に足を運んでいた。だが、彼女の姿は見つからなかった。白銀の世界は、彼女を隠し、和道を孤独にした。
「はーちゃ...はーちゃん」
記憶に閉じ込められた向日葵のように輝く笑顔を思い浮かべながら、ひたすらに公園を歩く。振り返り、自分が辿ってきた白い道を見つめる。自分の足跡だけが悲しいままに残るだけだ。彼女がいないことがわかると、肩を落とし帰路につく。
部屋に入ると、机に置いてあった、スケッチブックを手に取り、彼女に覗かれながらスケッチした絵の数々。どのスケッチを見ても彼女とも楽しかった思い出が蘇るだけで虚しくなる。スケッチを机に置き、引き出しから彼女に貰った花冠を取り出す。花冠は、色褪せてしまい濁っていた。花冠を見るだけでも、彼女との思い出が蘇るだけだ。八つ当たりで花冠を床に叩きつける。和道は、一瞬だけ自分の行動どうにか凍り付く。目の前の花冠は脆く音もなく散っていく。形はもう残っていない。床に散らばった残骸を見つめ、目から溢れた雫が頬を伝う。芽に雨水がかかるようだ。もう一度、スケッチブックを手に取り、中身を見る。彼女との記憶を思い出すばかり、そんな自分をリセットするかのように、スケッチブックを粉々に破り出す。ビリッという音を立てて、思い出が千切れていく。粉々になった紙が吹雪のように舞う。自分の感情的な行動に我に返り、その場に唖然と立ち尽くし、床に落ちた思い出の紙をただ見つめる。1枚だけ、破れていなく、くしゃくしゃになっただけの紙があった。それは、彼女に見せる予定だったあの絵だ。
「はーちゃん...ごめん」
無事だったその絵だけは、机の引き出しの奥に仕舞う。こんな絵を持ってても意味はないかもしれないが、次彼女に逢えた時の為に...と。
あれは、桜が舞い散る季節のことだった。まだ和道が幼い頃の話だ。公園で、スケッチブックに一生懸命、目に見える風景を描いていた。
「ねえ、何描いてるの」
後ろから、和道と同じ年くらいの女の子が話しかけてきた。ポニーテールがよく似合っている子だった。和道は、後ろを振り向く。元気に話しかけてくるその子に、人見知りな和道は戸惑った。
「...えーと、公園...」
「見せて、見せて」
そう言い女の子は、彼のスケッチブックを覗き込んだ。すると、目を輝かせた。
「わあ、すごいね。絵上手なんだね」
女の子の、満面の笑みに和道の心は、今までなかった初めての感情が芽生え始めた。心がざわつくような。これが何かは理解できない。
「...ありがとう」
「ねえ、私、みんなから、はあちゃんって呼ばれてるの」
女の子は首を傾げる。それは、貴方の名前も教えてと言う意味を含んでいた。それを察した。
「はあちゃん...。俺は、皆からずーくんって呼ばれてる」
「ずーくん。ずーくん、良い名前だね」
その日、出会ってから公園で毎日のように一緒に過ごしていた。かくれんぼしたり、一緒に絵を描いたり、花で花冠を作ったり。2人にとって、かけがえのない時間だった。その時間が音を立てて崩れていくことも知らずに。ある日、晴天で、彼女が不器用ながらも、和道に花冠を作っていた。
「できたっ、ずーくん座って」
彼女に促され、彼は芝生の上に腰を下ろす。彼女は、両手で彼の頭に花冠をのせる。彼は戸惑いながら彼女に聞いた。
「...はあちゃん...こ、これ」
「それ、ずーくんにあげるっ」
彼女は、満面の笑みで答えた。彼女の楽しそうな表情に、彼は口元が緩んだ。彼女に対する気持ちが、子供ながらに怖いほど深くなっていく感覚があった。
「...ありがとう」
はにかみながら彼は答えた。彼女は、彼の頭に手を差し伸べ、優しく頭を撫でる。
「ずーくんって、可愛いね」
「な、何っ...うぅ」
彼女に言われたことに否定が上手く出来ず、顔を赤くして照れてしまった。誰かに可愛いなんて初めて言われたのだ。
それから数ヶ月経った。夏休みの期間だ。2人は、図書館で一緒に夏休みの宿題をしたり、公園で遊んだり仲を深めていた。

蝉の鳴き声が鳴り響く中、この日は一緒に公園で遊んでいた。この時期は天気が不安定だ。その日は1日中晴れ予報であったが、雲行きが怪しくなりポツポツと雨が降り始めてきた。2人は急いで土管に駆け込む。
「はあちゃん...急に雨降ってきちゃったね」
「うん...すぐに止んでくれたらいいのに」
雨は弱まるどころか、更に土管を強く叩きつける。雨音が強く響く。彼女の身体は冷え、寒くて震えていた。それに気がつき、彼女に近寄り彼女の頭を自分の肩に誘導させる和道。
「...はあちゃん、これで少しはいいよね」
彼の言葉に、彼女は小さく頷いた。彼女の頬も彼の頬もどこか赤く染まっていたが、お互いに気が付かなかった。雨が止むと、2人は土管から出た。
「ずーくん、その花冠大切にしてねっ」
「うん、絶対大切にする。明日も会おうね」
2人は手を握り合い、約束をして笑い合う。家に帰り、自室に行き新品の匂いが漂う勉強用机に、大事そうに花冠を置く。椅子に座り頬をつき、その花冠をひたすら見つめる。
「(はーちゃん...)」
机に置かれていたスケッチブックを手に取り、絵を描き出した。はーちゃんが楽しそうに花冠を作っていた風景を思い出しながら。
次の日、和道はまた公園へ足を運んでいた。いつしか、公園へ来る目的が絵を描くよりも彼女と会う目的が彼の心の中で大きくなっていた。公園の入り口に彼女の姿が見えると、彼は笑顔で手を振った。
「ずーくんっ」
彼女は駆け寄ってくる。彼女の笑顔はいつも太陽のように輝いている。その笑顔を見ると、疲れも嫌な事も何もかも吹き飛ぶ。
「はーちゃん、今日何して遊ぶ、それか今日ははーちゃんに花冠作ってあげる」
首を傾げると、彼女は元気に頷いた。和道は彼女の手を握り芝生が広がっている場所へ導いた。
「ねえ、ずーくん、描くの得意だよね」
芝生に向けられていた彼の視線は、すぐに彼女に向けられる。
「う、うん」
「じゃあさ、今度私を描いて持ってきてよっ、ねっ」
笑顔を向けられ、断る気にもなれなかった。彼は、頷くとまた視線を芝生へと戻した。赤い頬を隠すかのように。数分経つと、彼は立ち上がり両手で花冠を持ち上げ、空にかざした。彼女の頭に優しく花冠を乗せるしと、彼女は嬉しくて彼に抱きついた。
「ち、ちょ、はーちゃん」
「ありがとう、ずーくんっ、だいすき」
初めて聞いた彼女の言葉に、一瞬戸惑ったが和道も彼女を抱きしめ返す。
「うん。俺も、はーちゃん大好きだよ」
2人が出会ってから数ヶ月が経ち、学校の帰りに毎日、公園により2人は会っていた。彼女は和道とは違う学校に通っており、家庭に複雑な事情を抱えていた。そのため、家族から逃げるように毎日公園にきていた。和道も、両親が放任主義で、寂しい気持ちが溜まっていた。それを打ち消すように、絵をひたすらに描くため公園に来ていた。
季節は移り変わっていた。夏が終わり秋へ色付いていた。和道は頻繁に公園へ絵を描きに来ていたが、彼女と会うことはあまりなかった。道端に落ちていたどんぐりを拾い観察していると、聞き慣れた声がこちらに近づいてきた。
「ずーくんっ」
その声に反射的に反応し、どんぐりを持っていた手の力が緩まり、どんぐりは音を立てて地面に落ちる。和道は、視線を彼女に向ける。
「はーちゃん」
「ごめんね、なかなか来れなかった。でも、ずーくんに会えて嬉しいよっ」
「はーちゃっ...うっ」
彼女を見た瞬間、何故だか涙が溢れてくる。彼女は和道の異変に気がつき、雫が落ちる彼の頬に触れ、拭った。彼女は心配そうな顔を浮かべる。
「どうして、ずーくん泣いてるの」
「ごめん、はーちゃん。もう2度とはーちゃんに会えないかと思って、もう大丈夫だから」
彼はまた泣きそうにながらも、彼女を安心させようと笑顔で答える。すると、彼女は彼の頬に手を置いたまま、彼に顔を近づける。すると、一瞬だけ唇が優しく触れ合った。子供らしい純粋なやり取りだった。
「ずーくんがもう泣かない魔法だよっ」
和道は言葉を失う。初めてのキスのなんとも言えない感覚。だが、それ以上に彼女への気持ちが深くなり、底がつかないような感覚。
「はーちゃ...…ん」
だが次の彼女が発した言葉で全てが現実に引き戻されてしまった。
「ねえ、ずーくん、前、私の絵描いてくれるって言ってたよね。見せて」
和道は、後ろに隠していたスケッチブックを持ってに力が入る。本当は、彼女に見せるために彼女を描いた。だが、キスされた今彼女に絵を見せるのが恥ずかしくなってしまった。和道は、彼女に意味のない嘘をついた。
「あ、ごめん。まだ描き終わってなくて」
嘘をついた。だが、彼女は自分を描いてくれた絵を見たいがために、後ろに回り込み、ちらっとスケッチブックを覗き込んでしまう。そこには、花が咲くように美玲が描き込まれていた。だが、勝手に見られた事が嫌だった。
「いいじゃん、これ私...」
彼女が顔を見上げると、そこにいたのはいつもの優しい和道ではなかった。彼女を見下ろす彼の目は、鋭く冷たかった。彼の中で、彼女に対して、友達なのに勝手に覗いてくるという行動が許せなかった。それと同時に、恥ずかしさもあったのかもしれない。そして、彼は自分の中にある沸々と煮えたぎる感情に任せ勢いよく彼女の頭を叩いてしまう。
「辞めろよっ、勝手に見ないでっ、お、お前なんかっ」
「ずー...くんっ」
彼女の涙を見た時、和道は自分を抑えようとしていた。だが、勝手に絵を覗かれて裏切られたという気持ちで自分の本心とは違う言葉を吐いてしまう。
「お前なんか大っ嫌いだっっ」
その言葉はナイフとなり、彼女の心をズタボロに引き裂いた。自分の発言に、後悔し居た堪れなくなり、彼女の泣き声が背後から聞こえてくる。だが和道は、両手でスケッチブックを強く抱きしめ、公園から去って行ってしまった。謝る事も仲直りする事もなかった。
それから数日間、ずっと和道は、彼女の事ばかりを考えていた。絵を見た時のキラキラした目。泣かない魔法をかけてくれた時の柔らかい声。美玲が大事な存在だと、改めて気が付いた。謝ったとしても許してくれる保証はない。
「(行かなきゃ、謝らなきゃ)」
ベッドから重い腰を上げ、立ち上がりスケッチブックを手に持ち家を駆け出した。彼女に会えるのかもわからないのに。
公園に着くと、彼女は見当たらなかった。絵を描いて、時間が過ぎればいつかきてくれると自分の中で信じていた。だが、時間が経っても彼女は現れなかった。それでも必死に絵を描き続ける。和道が気がつくと、既に空はオレンジ色に染まり、鈴虫が鳴いている。今日はたまたま来なかっただけだよね、と自分に言い聞かせる。ザクザクと音を立てて枯葉を踏見ながら、帰路へつく。その後も、時間に余裕がある時は公園に立ち寄っていた。だが、彼女が姿を現すことはなかった。
そして数ヶ月が経ち、街は白く染まり、新たな年を迎えた。結局、彼女の情報を何も得れないままだった。和道は、数ヶ月前に描いた彼女の絵を見る。悲しい程に蘇ってくる彼女との記憶。嘘をつき、最終的に彼女を傷付けた。身体に触れる雪がいつも以上に冷たく感じる。この日も彼女に会えないかと公園に足を運んでいた。だが、彼女の姿は見つからなかった。白銀の世界は、彼女を隠し、和道を孤独にした。
「はーちゃ...はーちゃん」
記憶に閉じ込められた向日葵のように輝く笑顔を思い浮かべながら、ひたすらに公園を歩く。振り返り、自分が辿ってきた白い道を見つめる。自分の足跡だけが悲しいままに残るだけだ。彼女がいないことがわかると、肩を落とし帰路につく。
部屋に入ると、机に置いてあった、スケッチブックを手に取り、彼女に覗かれながらスケッチした絵の数々。どのスケッチを見ても彼女とも楽しかった思い出が蘇るだけで虚しくなる。スケッチを机に置き、引き出しから彼女に貰った花冠を取り出す。花冠は、色褪せてしまい濁っていた。花冠を見るだけでも、彼女との思い出が蘇るだけだ。八つ当たりで花冠を床に叩きつける。和道は、一瞬だけ自分の行動どうにか凍り付く。目の前の花冠は脆く音もなく散っていく。形はもう残っていない。床に散らばった残骸を見つめ、目から溢れた雫が頬を伝う。芽に雨水がかかるようだ。もう一度、スケッチブックを手に取り、中身を見る。彼女との記憶を思い出すばかり、そんな自分をリセットするかのように、スケッチブックを粉々に破り出す。ビリッという音を立てて、思い出が千切れていく。粉々になった紙が吹雪のように舞う。自分の感情的な行動に我に返り、その場に唖然と立ち尽くし、床に落ちた思い出の紙をただ見つめる。1枚だけ、破れていなく、くしゃくしゃになっただけの紙があった。それは、彼女に見せる予定だったあの絵だ。
「はーちゃん...ごめん」
無事だったその絵だけは、机の引き出しの奥に仕舞う。こんな絵を持ってても意味はないかもしれないが、次彼女に逢えた時の為に...と。


