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曇天模様の屋上は、鬱陶しいほどに湿気ている。
灰色がかった空は汚い鼠とゴミが転がる路地の色に似ていた。遠くの方で稲妻が走ったように見えたが、屋上は依然として静寂を保ったままだ。
ただの幻覚かと判断した少女は、定位置に座って制服の内ポケットからソフトケースを取り出す。
特注品のお気に入り。
「はぁ……」
欠伸とともに、白い煙がゆらり。
肺に染み込むタールは表の市場に出てるものより重く、吸い慣れていないと噎せるのだが、少女は平然と煙を燻らせた。
そうして暫し、目を閉じていると──
「レイ」
抑揚のない声に名を呼ばれ、瞼が持ち上がる。
少女が吸いかけの煙草を口端にぶら下げたまま振り向くと、クラスの中心であざとく愛想を振り撒いていたはずの青年が真顔で突っ立っていた。
生温い風に黒髪が靡き、隠していた両耳のピアスが晒される。
「品行方正な生徒会長が屋上で煙草吸ってる絵面、何度見てもウケんね」
「そっちこそあざと可愛い猫は? 怠け者で遊蕩児な本性が出てるけど」
「さー、猫逃げたんじゃね」
すとん、と少女の隣に腰を下ろした青年。
さも当たり前のように手を伸ばした先にはお弁当箱があり、青年は胡座をかいて無言で食べ始める。食事中に真横で煙草を吸われようと気にも留めない。
地味な生徒会長と、可愛いで人気者な男の子。
癖のない黒髪くらいしか共通点がないと誰もが思っていることだろう。ましてや、屋上で一緒にお昼ご飯を食べてるなんて夢にも思わないはずだ。二人に接点なんてまるでない。
だが、リバーシブルな彼らは、秘密があった。
「これ、明日もいれて」
「……むり。献立は変えない。あとコウのために作ってるんじゃないから」
「は? 俺のためでしょ。俺の飯だし」
「違う」
「違くない」
「違う、コウのはついで」
「……」
微かに不満を滲ませる青年──コウとの出会いを少女は少しだけ思い出す。
あれは、春を過ぎた梅雨入り前。
生徒会長に任命されたばかりの少女が、ニコチン切れだと屋上で黄昏ていた。屋上の鍵を針金で開け、家の厄介事に頭を悩ませながら唸っていたとき、青年はやってきた。
「へぇ、生徒会長が喫煙? ……黙っててほしいなら俺にも一本寄越しなよ」
なにかが誂えたような最悪の邂逅。
隣のクラスのゆるふわで可愛いと噂の青年が、別人のように微笑したことを少女は忘れない。少女の素を見た瞬間に普段の〝僕〟という一人称を捨て、〝俺〟と発したことも。
そのあと、重すぎる改造煙草に噎せた青年が「こんなん吸ってんのえぐ」と涙目で言っていたことも、少女は覚えている。
「(面倒ごとを避け、安寧を選んだだけ)」
少女はそう、過去に言い訳をした。
あれから、青年とは互いの家の事情が似ているどころか笑えないほど同じ境遇であることを知り、親近感から多少会話が増えたが、少女も青年も常に危ない綱渡り状態。
口八丁で負けた少女は自分のお弁当を作るついでに青年にも作っているけれど、あとどのくらい今の平穏が続くかもわからない。
この世界、一寸先は闇だ。
「レイ」
再び名を呼ばれ、少女は思考を止める。
やけに神妙な声色だなと少女が隣の青年に視線をやると、いつもは本心の一粒だって与えないガーネットの色の瞳に捉えられていた。
「レイ、家帰んの?」
「……は、なに、急に……」
不自然に、心臓が軋む。
それは、少女の家のことを深くまで知ってるような口ぶり。
なにが起きているのか、なにが起きようとしているのか。
「……そりゃあ、帰るでしょ……。私は高校限定でこっちに通ってるだけ。知ってるのになんで聞くわけ」
動揺を抑え込もうとする少女に対し、青年はものぐさに少女の吸殻を拾い上げ、ピンッと飛ばした。
青年の指先を視線で辿る少女は聡い。青年が次に紡ぐ言葉を察してしまい、どうにもできない心臓の早鐘に眉を寄せた。
そして、青年は口を開く。
「抗争になるからじゃねーの」
じわり。少女の口内に苦味が充満した。
今時、抗争なんて物騒な争いが起きるのは日本だと極道くらいなものだろう。
古いしきたりと面子が大事な極道の家に、二人は生を受けて、育ってきた。
少女と青年の共通点。裏街道を歩む者の定め。
後ろ盾を得て、地盤をかため、有象無象の中を生き抜いて、組を存続させる。
道中、命のやりとりがあるのは仕方のないこと。
「……コウも、同じならわかるでしょ。抗争は避けて通れない」
「俺のとこはどことも揉めてねぇよ」
「っ、調べたなら、私の家が劣勢で危ないの、知ってるんじゃないの?」
「知ってる」
「じゃあ、わざわざ、聞かないでよ」
青年は、少女が家に帰るかと訊いた。
その意図を、少女は汲めないほど馬鹿ではない。まだなんの戦力にもならない小娘を、抗争だからと呼び戻すわけ。本来なら安全な場所に置いておくはず。
自身の利用価値を、方法を、少女は理解していた。
「……レイ、おまえ、それでいいの?」
「いいとかわるいとか、そういう次元の話じゃない」
「だる、ヤクザが優等生ぶってんなよ」
「……っ、うるさい」
「は? 俺の前で猫被りやがって。うるせーのはどっちだよ」
「……っっ、コウなんか嫌い! うざい! なにもわかんないくせに、〜〜ッ、帰るから!!」
しかし、少女が立場を理解していても納得は別だ。
青年の煽りに少女は冷静さを欠いて、子どもらしい言葉遣いで悪態をつきながら勢いよく立ち上がった。
そのままドアの方に向かう少女の腕を、青年が掴む。
「まてこら」
「さわんないで! コウきらい!」
「はじめてみたわ、おまえの癇癪。あと嫌いとか言うな口塞ぐぞ」
「はぁっ!? 意味わかんないから、なにい──……」
余裕そうな青年に、有言実行で口を塞がれたと少女が気づいたのは数十秒後のこと。
売り言葉に買い言葉でヒートアップしてしまったのがよくなかった。青年の唇で口を塞がれ、少女は自分の感情と向き合う羽目になる。
「あー、ついやっちゃった」
唇が離れた直後、そんなことを呟いた青年に、はくりと少女は言葉をなくした。
「(今のは、どういう意味での、キス?)」
少女の頭の中はそれでいっぱいになり、混乱の末、わからなくて──泣いた。
「え」
「もっ、やだっ、やだぁ〜〜……っ」
限界だった。
あまりにも子どもみたいに、えんえんっと泣く少女に青年は焦る。泣かれたことに本気で焦った。
「レイ、レイ、ごめんって、泣くほどいやだったのまじかごめん」
「うぅ〜っ、ちがう〜〜っ!!」
「は? なにが違う? てかまじ、レイに泣かれんのキツいんだけど、どうやったら泣き止むのこれ……」
青年のパーカーの裾に涙が染み込んでいく。必死にぽんぽんと少女の涙を拭う青年だが、全然泣き止む素振りがないため、いちかばちかで少女を抱きしめた。
大泣きしてる子どもをあやす、そんな気分だったと後日青年は語る。
「……すんっ、ばか、コウの、ばか」
「うん、俺が馬鹿。まじすげー馬鹿だったから、あんま泣かないで」
「コウのせい」
「うんうん、落ち着いた?」
「……」
青年にしては珍しく、力加減を見誤ったりしないように優しく少女の頭を撫で続けた。
その甲斐あってか、少女は泣き止み、青年はほっと安心する。
でも安心したのも束の間、少女がまたぽろりと眦から涙を流すから青年は慌てて丸っこい頭をよしよしと撫で、唇を薄く開いた少女の声に耳を傾けた。
「……なんで、気づかせるの。政略結婚なんかしたくなくなっちゃう……」
「……あ、キスが嫌で泣いたわけじゃない?」
「〜〜っ、だから、コウ、最低っ」
「まった、まじごめんって、目真っ赤じゃん」
勘違いは解けたものの、青年が勘違いしたことを悟った少女がまた泣き出してしまうため、途方に暮れた青年は賭けでまたキスをした。
何度も何度も、唇を食んで、啄んで、角度を変えて重ねてみる。
すると、泣き疲れたらしい少女は、キスを終えたあと青年の胸元にこてんと顔を埋めて出てこなくなった。
心音を聴かれてるようでじわじわと羞恥心に見舞われる青年は、どうも調子を崩されていると自分に苦笑しながら少女に言う。
「その政略結婚さ、」
「……」
「俺としない?」
求婚と変わらない青年の発言に、少女は意味を正しく飲み込んでから顔を上げた。
麗しい笑みと、ほんのり甘さを溶かした瞳が、少女に愛しさを伝えている。
「は? 本気……?」
「俺、ヤクザでよかったって初めて思ったかも。そうじゃねぇとおまえ掻っ攫えねーし」
「いや、でも、抗争……」
「そんなのいくらでも通る道だろ。よくわかんねえ雑魚に嫁ぐくらいなら、俺んとこにしろよ。もう親からも許可もらってるから遠慮なくどーぞ」
「…………は? 親、なん、……え、本気?」
四方八方を固められていることに少女はようやく気づいたようで、目を丸くしながら再度「本気?」と問う。
青年のこたえは、変わらない。
酷く優しい眼差しで頷いた青年は、少女の頬を撫でる。
「政略結婚と言っても、俺は下心も恋愛感情もあんだけどね」
鈍色の空の下。
今度は嬉し泣きをしてしまった少女に、青年は困ったように眉を垂らした。
end.



