翌朝、エメはコルヴスを自室へと呼びつけた。

 「コルヴス卿。昨夜、書庫で古代植物学に関する大変興味深い文献を見かけました。ぜひ、わたくしの部屋でじっくりと読みたいのですが、鍵のかかった特別な書架に保管されておりましたの…」

 「昨夜、書庫で古文書を熱心に研究されていた、あの聡明そうな女性。彼女ならば、その本の価値をよくご存じでしょう。彼女に持ってきてもらうことはできませんこと?」

 エメの極めてもっともらしいリクエスト。コルヴスはその黒い瞳を一瞬曇らせたが、断る理由はどこにもなかった。

 「…イリスですか。かしこまりました。妃殿下のご要望とあらば」

 しばらくして、控えめなノックの音が響き、昨夜の書庫の職員――イリスが、一冊の分厚い本を抱えて部屋へと入ってきた。彼女の顔は緊張でわずかに青ざめている。そして、その後ろには影のように屈強な兵士が二人立っていた。密室での会話は不可能だった。

 イリスはエメの前に進み出て一礼すると、慎重に本を差し出した。その指先がほんの少し震えているのを、エメは見逃さない。エメはゆっくりと本を受け取ると、イリスの労をねぎらうかのように、その冷たい指先に自分の指先を、ほんの一瞬だけそっと重ねた。
 ―――その短い接触の間。
 エメはあの紋章の描かれた羊皮紙を、古びた革の表紙とイリスの強張った指の間へと、音もなく滑り込ませた。
 イリスの瞳が一瞬、驚きに見開かれる。しかし、彼女は顔色一つ変えず、エメの瞳をまっすぐに見つめ返した。その瞳の奥には、警戒と、ほんのわずかな希望の光が揺らめいているように見えた。

 エメは本の装飾に見入るふりをしながら囁く。

 「ありがとう。…この本、とても興味深いわ。特に、この背表紙の紋章が珍しいですわね」

 すると、イリスは抱えてきた本とは別に、もう一冊比較的新しい紋章学の本をエメに差し出した。

 「妃殿下。こちらも非常に参考になるかと存じます。よろしければ」

 彼女は深々と一礼すると、部屋を出ていく。扉が閉まる前のその一瞬。振り返らず、しかしエメにだけ聞こえるように、ほとんど息の音のような小さな声で囁いた。

 「……その紋章は『太陽』。夜、最も暗い場所で眠る太陽です」


 イリスが去った後、エメはすぐに紋章学の本を開いた。数十分後。あの太陽のような紋章を見つけ出す。

 「古の時代、この地を治めていた『日向(ひなた)の氏族』の紋章。しかし、彼らは数百年前、突如として歴史から姿を消した…?」

 「日向の氏族」、「太陽」そして「夜、最も暗い場所」。
 全てが断片的で、何もかもが謎に包まれている。
 しかし、新たな手がかりであることに変わりはない。

 その夜、エメは行動を決意した。寝台のシーツを裂いて作ったロープをバルコニーの手すりに固く結びつけ、闇の中へとその身を溶かす。

 庭園に降り立つことに成功したエメは、息を殺し、影から影へと進んでいく。
 「夜、最も暗い場所」とは、どこか。
 光が届かない場所?違う。それよりももっと暗い、光を拒絶する場所。
 彼女の視線の先に、月明かりを浴びて青白く浮かび上がる壮麗な建物があった。そこは死者が眠る、霊廟だった。

 エメは周囲を警戒し、重い石造りの扉にそっと手をかける。その指先が、冷たい石に触れた、まさにその瞬間。

 背後の闇から、全てを凍りつかせるような声がした。

 「―――何か、お探し物でも?」

 エメが心臓を鷲掴みにされたような衝撃で振り返ると、背の高い糸杉の木にもたれかかるようにして、コルヴスが立っていた。その口元には、獲物を追い詰めた捕食者の、獰猛な笑みが浮かんでいる。
 しかし、エメは次の瞬間には、悪戯を見つかった子供のような、悪びれない絶妙な笑みを浮かべていた。

 「まあ、コルヴス卿。…見つかってしまいましたのね」

 彼女の手には、昼間の植物学の本が握られている。

 「この本を読んでおりましたら、月の光の下でしか咲かないという珍しい花を確かめてみたくなりまして。つい…。少し、はしたない振る舞いでしたかしら?」

 彼女の完璧な言い訳を、コルヴスはただ黙って聞いていた。やがて、彼はエメの本をちらりと見る。

 「なるほど。妃殿下は大変な勉強家でいらっしゃる。ですが、霊廟の近くは足場も悪い。その本に、その花は霊廟の裏手に咲くと書いてありましたかな?」

 鋭い追及に、エメは少しうろたえ、恥ずかしそうに言った。

 「まあ…! いえ、どうやら、すっかり道に迷ってしまったようですわ。…コルヴス卿、お部屋まで送っていただけませんこと?」

 か弱き王女の完璧な「演技」。コルヴスは一瞬、思考を巡らせた後、恭しく一礼した。

 「…かしこまりました。それが、わたくしの務めにございますので」

 エメの部屋の扉の前までたどり着くと、コルヴスは再び深々と一礼する。

 「では妃殿下。今宵は、どうか書物に夢中になりすぎぬよう」

 扉が閉まり、背中を預けてエメはその場にへなへなと座り込んだ。心臓が痛いほど脈打っている。助かった、のではない。あの男は何も信じてなどいない。

 一方、コルヴスはエメの部屋から離れると、ふと足を止め振り返った。

 「……全く。実に、面白いお方だ」

 その独り言は、月夜の闇の中へと溶けて消えていった。