エメは意を決して黒い封蝋を破った。最高級の羊皮紙に、流麗だがどこか冷たい筆跡で、こう記されていた。

 『ようこそ、エメラルドの瞳。我が『箱庭』へ』

 『お前は、稀有な『宝石』だと聞いている。お前が真に俺のコレクションに加わる価値のある『宝石』か、あるいは道端に転がる『石ころ』に過ぎないのか。その価値を、示せ』

 『この部屋に一つだけ、この城にふさわしくないものが置いてある。今宵の晩餐までにそれを見つけ出せたなら、お前の言葉を少しだけ聞いてやってもいい』

 歓迎の手紙かと思われたそれは、エメの価値を一方的に試す、王子からの傲慢な「挑戦状」だった。

 (石ころ、ですって…?)

 エメの白い頬が、屈辱にカッと熱くなる。

 (受けて、立ちましょう)

 彼女は強く決意した。

 豪華な部屋を鋭い観察眼で見渡すエメの視線が、やがてテーブルの上の果物の盛り合わせに止まった。作り物のように完璧な果物たちの山の中に、たった一つだけ、少し形が歪で、虫が喰ったような跡さえある一個のリンゴが紛れ込んでいる。この完璧な箱庭に「ふさわしくない」もの。それは、不完全な「ありのままの自然」そのものに違いない。

 (…見つけた。)

 やがて、コルヴスが部屋の扉をノックした。

 「妃殿下。王子がお待ちです」

 エメは臆することなく、テーブルからあの虫喰いのリンゴを一つ手に取る。そして、悪戯っぽくコルヴスに見せながら言った。

 「ええ、喜んで。それよりコルヴス卿、コランダムでは果実がとっても美味しそうに実りますのね!わたくし、こういう『ありのまま』のものが、一番好きですの」

 そう言って、彼女はリンゴを、しゃり、と小気味の良い音を立てて一口齧ってみせた。その自信に満ちた瞳を、コルヴスは怪訝そうに見つめた。

 コルヴスに導かれ、エメがルビウスの待つ豪華な食堂へ足を踏み入れると、そこには月光のような銀髪と、全てを見透かすような紫水晶(アメシスト)の瞳を持つ、人間離れしたほど美しい青年が立っていた。王子ルビウス。彼が放つ絶対的な支配者のオーラに、エメは息を呑む。

 ルビウスの視線が、エメの手に残るリンゴに向けられた。

 「……そのリンゴか。なるほどな。正解だ。褒めてやろう」

 その傲慢な物言いに、エメは完璧な淑女の笑みを浮かべる。

 「お褒めにあずかり光栄ですわ、ルビウス様。ではお約束通り、わたくしの話を聞いていただけますわね?」


 晩餐の間、二人の言葉の探り合いが続いた。エメがベリルの窮状を訴えようとすると、彼は冷たく遮る。

 「不完全なものは、淘汰される。それが世界の美しい理《ことわり》だ」

 その言葉に、エメは目の前の男が、自分とは決して相容れない価値観で世界を見ていることを確信した。

 「我が箱庭は、星空も格別なのだ」

 晩餐の後、ルビウスはそう言ってエメを部屋に隣接したバルコニーへと誘った。
 眼下には、吸い込まれそうな巨大な螺旋階段がどこまでも続いているように見えた。その闇の底から、エメは底知れぬほど悲しい気配を感じ取った。その瞬間、懐のムーンストーンが、ほんの一瞬だけかすかな熱を帯びる。
 エメがはっとして闇の底を見つめる、その驚愕の表情を、ルビウスが満足げに見下ろしていた。

 ◇

 翌朝、エメはコルヴスに願い出て、壮麗な書庫を訪れた。彼女は龍や古の約束について記された書物を探すが、一冊も見当たらない。まるで、最初から存在しなかったかのように。

 エメは偶然を装い、書架の片隅で古文書を分類していた聡明そうな若い女性に、そっと声をかけた。

 「少し、いいかしら?…わたくし、昔のおとぎ話のようなものが好きなのですけれど。例えば、そう…『龍』が出てくるようなお話は、ありませんこと?」

 その瞬間、女性の瞳が恐怖に大きく見開かれた。彼女は慌てて周囲を見回し、離れた場所からこちらを見るコルヴスの視線に気づくと、意を決したように、わざと大きな声で言った。

 「妃殿下。大変申し訳ございませんが、当書庫に、そのような子供だましの作り話は、一冊もございません」

 それは明確な拒絶。しかし、その瞳の奥が、エメにだけ何かを必死に訴えかけているように見えた。

 女性は深々と一礼し、エメの横を通り過ぎていく。そのすれ違う一瞬、彼女の手から一枚の小さな羊皮紙の切れ端が、はらりとエメの足元に落ちた。あまりに自然な動きで、遠くのコルヴスが気づいた様子はない。
 エメはドレスの裾を直すふりをして、その小さなメッセージを、誰にも気づかれぬようそっと拾い上げた。

 コルヴスに送り届けられ部屋に戻ったエメは、隠していた羊皮紙を開いた。そこにはインクで、ある「紋章」が描かれていた。紅い宝石でも、雪の結晶でもない、全く見たこともない紋章。

 金色の檻の中。エメの、蜘蛛の糸を手繰り寄せるような静かな戦いが、密やかに始まりを告げた。