旅立ちはあまりにも早く。
 湖に夕陽が沈みきるその前に、エメはルナとロウの住処を後にした。

 「エメ。…気をつけて」

 ルナはエメをそっと抱き寄せた。その手はかすかに震えている。ロウは無言で、薬草の入った革袋を差し出した。短い間だったが、その家族の温かさに、エメは深々と頭を下げた。

 長老に見送られ、月明かりだけが照らす静かな森の中を、カイと共に行列の待つ場所へと戻る。

 「…本当にいいのですか。わたしのせいで、あなたの一族の掟を、破らせてしまったのですよね」

 「掟が親父を助けてくれるわけじゃない。俺は、俺が正しいと思うことをやるだけだ」

 「…わたしも、同じです」

 その言葉に、カイがふと足を止めた。そして、真剣な目でエメを見つめる。

 「……死ぬなよ。絶対に」

 「あなたも」

 それが二人の、最初の約束になった。


 野営地が見える丘の上。

 「いいか、俺が奴らの注意を引きつける。その間に戻るんだ」

 そう言って、カイは闇の中へと姿を消した。しばらくして、行列の逆方向から獣の咆哮が響き渡り、野営地が手薄になる。

 「今。」そう思うのに、エメの足はすくんで動かない。その瞬間、影のように再び現れたカイがエメの手を引いた。

 「走れ!」

 息を殺して馬車まで駆け抜ける。馬車に入る直前、カイが彼女の手の中のムーンストーンに自分の手を重ねた。

 「……忘れるな」

 それだけを言い残し、彼は闇の中へと完全に姿を消した。

 エメは一人、馬車の中に戻った。高鳴る鼓動を抑え、乱れた呼吸を必死に整える。

 ―――その時だった。

 不意に、馬車の扉が音もなく開けられた。松明を掲げたコルヴスが、そこに立っていた。
 エメの心臓が、氷のように凍りつく。
 コルヴスは、全てを見透かすような目で、彼女のわずかに乱れた衣服と赤らんだ頬をじろりと眺める。そして心底不思議そうに言った。

 「これはこれは、妃殿下。何か良いことでもありましたかな?まるで、恋する乙女のような美しいお顔をされておりますが」

 その甘い声に、エメは背中に嫌な汗が滲むのを感じながらもふわりと微笑んだ。そして、扇でそっと口元を隠しながら、小首を傾げてみせる。

 「まあ、コルヴス卿。わたくしの恐怖を和らげようと、冗談で和ませてくださっているのですね? お心遣い、痛み入ります。ですがご心配には及びませんわ」

 その言葉に、コルヴスの笑みが一瞬だけぴくりと引きつった。

 「…これは、失礼いたしました。妃殿下のそのご気丈さ。我が主、ルビウス王子も必ずやお気に召すことでしょう」

 それだけを言うと、彼は静かに扉を閉め、持ち場へと去っていった。一人になった瞬間、エメの気丈な仮面がはがれ落ち、彼女は馬車の壁に寄りかかって荒い呼吸を繰り返した。


 翌朝、旅を再開した行列の目の前に、ついに巨大な黒い城壁が見えてきた。威圧的で見る者を拒絶するような、コランダムの国境要塞。その黒く巨大な門が、地鳴りのような音を立てて開かれていく。
 行列が要塞の内部へ足を踏み入れると、濡れた黒曜石のような石畳と、冷たい雨の匂いがエメたちを迎えた。

 やがて中庭に辿り着くと、コルヴスは有無を言わせぬ口調で、護衛隊長グランに告げる。

 「妃殿下の身柄は、これより我らがお預かりする。あなた方は兵舎で疲れを癒されるがよい」

 「何を言うか!」

 グランが激しく反発するが、コルヴスは冷たく言い放った。

 「お忘れかな?あなた方は一度殿下を失いかけた。その失態を、繰り返すおつもりか?」

 グランが屈辱に顔を歪ませる中、エメは自ら馬車の扉を開けた。

 「グラン隊長。長い道のり、ご苦労様でした。ここからは、コランダムの皆様のご厚意に甘えましょう」

 主君の言葉には逆らえず、グランは深々と頭を下げるしかなかった。

 ベリルの兵士たちから引き離されたエメは、抵抗せずただ黙ってコルヴスの後についていく。その瞳は冷静に、廊下の構造、兵士の配置、全てを記憶に刻み付けていた。

 彼女に与えられた部屋は、驚くほど豪華絢爛だったが、その窓には美しい鳥かごのような金の格子がはめられていた。
 そこはまごうことなき「金色の檻」だった。

 一人残されたエメが、懐のムーンストーンを握りしめた、その時。
 部屋の扉が静かにノックされ、無表情な侍女が銀の盆を差し出した。

 盆の上には、一枚の手紙だけが置かれている。

 黒い封蝋に刻まれているのは、寸分の狂いもない完璧な雪の結晶。
 紛れもない、王子ルビウスの紋章だ。

 王子からの最初の「言葉」。
 それは歓迎か、それとも。
 エメは金色の檻の中で、その手紙にゆっくりと手を伸ばした。