月白の湖で迎える最初の朝。

 エメは巨木の洞の中で目を覚ました。壁の光る苔が放つ穏やかな光。聞こえてくる不思議な鳥の声。自分が昨日までとは全く違う世界に来てしまったことを、改めて実感する。

 朝食を終えたエメは、旅装束へ再び袖を通すと、湖のほとりに佇むカイの元へ意を決して歩み寄った。

 「カイ。昨日はありがとうございました」

 「……別に」

 カイは湖から目を離さないまま、ぶっきらぼうに答える。

 「長老様は仰っていました。コランダムに囚われているのは、あなたのお父上だと」

 「……そうだ」

 カイの夜空のような深い藍色の髪を、風がわずかに揺らした。

 「一つ、お聞きしても? あなたは、わたしをどうするおつもりでしたか?」

 核心を突いた問いに、カイは少し気まずそうに視線を逸らす。

 「……お前が、コランダムに向かう王女だと知った。城の中に入れる唯一の手がかりだ。だから、ルビウスなんかに渡される前に、お前が信用できる人間かどうか、確かめたかった」
 「何の説明もなしに、手荒な真似をして悪かった」

 その不器用だが嘘のない言葉を聞き、エメの中で最後の迷いが消えた。
 彼女はカイの瞳をまっすぐに見据え、宣言する。

 「ならば、道は決まっています。わたしを行列に戻してください」

 「お前…」

 「わたしは予定通りコランダムへ嫁ぎます。これがわたしの戦いであり、そして今やわたしたちの戦いです。わたしがあなたの『目』となり、あなたのお父上が囚われている場所を、必ず見つけ出します」

 エメの想像を超えた覚悟に、カイは息を吞んだ。

 ◇

 エメが消えた森の中は、混乱の渦に叩き込まれていた。

 「探せ! 殿下を探し出せ!」

 護衛隊長グランは獣のような咆哮を上げるが、パニックに陥ったベリルの兵士たちは右往左往するばかりだ。

 その混乱を、コランダムの側近コルヴスは冷たい瞳で静かに観察していた。

 「騒ぐな。お前たちは周囲の警戒を固めろ。…これは、人間の仕業ではない」

 部下に的確な指示を与えた彼のもとへ、苛立ったグランが怒鳴り込んでくる。

 「貴様ら! なぜ見ているだけなのだ! 殿下にもしものことがあれば…!」

 「失態ですね、グラン隊長」

 コルヴスは氷のような笑みで遮った。

 「未来の国母を、自国の領土内でまんまと奪われた。この『責任』は、いずれきっちりと取っていただきます」

 グランを冷たくあしらった後、コルヴスは一人の部下を呼び、耳打ちした。

 「王子へ、急ぎ伝令を送れ。『ベリルの聖女は、我々の予想を超えて、面白い玩具のようだ』…とだけ、伝えろ」

 その伝令が届いた先、コランダムの王宮は常春だった。
 豊かさが「飽和」した、恐ろしいほどに美しい箱庭。その光り輝く王宮の遥か地下深く、王子ルビウスは一体の巨大な龍を静かに見下ろしていた。龍は禍々しい鎖で岩盤に縫い付けられているが、その神々しい黄金色の鱗は、衰弱してなお威厳を放っていた。
 ルビウスはその光景に満足すると、巨大な黒い扉から静かに出ていく。やがてガチャリと鍵のかかる音だけが、冷たく響くのだった。
 公務のため執務室へ向かっていたルビウスの元へ、コルヴスからの伝令兵が跪き、震える声でその伝言を告げた。

 王女の失踪という報告に、ルビウスは怒るどころか、その唇に静かな笑みを浮かべる。彼は誰ともなしに呟いた。

 「…聞いたか。俺の花嫁は、ただの人形ではないらしい。」

 そして、伝令兵に冷たく命じる。

 「コルヴスには全ての権限を与える。手段は問わぬ、と伝えよ。―――盗まれた、俺の花嫁を、探し出せ、と」

 ◇

 月白の湖では、エメが長老へ旅立ちを伝えていた。

 「…人の子よ。お前がそこまでの覚悟を決めているのなら、止めはせぬ。だが、茨の道となろう」

 長老は、懐から小さな石を取り出した。月白の湖の水を固めたような、乳白色に輝くムーンストーンだった。

 「これを持て。これは魂の響きを映し出す鏡だ。その熱は距離を超える。道に迷う時、心の臓の鼓動のような熱だけを、信じよ」

 エメはその石を両手でそっと受け取った。その石は、カイが首から下げているそれと対となるものだという。
 自らの意志で掴み取った、初めての「信頼」。その石を彼女は強く握りしめた。