長老の問いが、エメの心に重くのしかかる。
全てを知った上で何をもたらすのか、と。龍の一族の瞳には、人間への冷たい光が宿っていた。
言葉は無力だ。エメは直感的に悟った。
かつて、彼らは人間の「約束」という言葉に裏切られたのだ。今、どんなに美しく誠実な言葉を並べ立てても、彼らの心に深く刻まれた傷は癒せない。
ならば、自分がこの場で差し出せる、唯一のもの。
エメは静かに、懐深くへと手を入れた。
ざ、と龍たちが身構える気配がする。カイの表情にも緊張が走った。
エメが取り出したのは、一冊の古びて擦り切れた革張りの手帳。母の形見であり、彼女の唯一の武器であり、「お守り」だった。
エメはその手帳を両手で捧げ持つと、ゆっくりと長老の前へ歩み出た。そして彼の足元にそっとそれを置いた。
「わたくしにはあなた方のような力はありません。コランダムの軍勢と戦う術もありません」
彼女は顔を上げ、長老と彼を取り囲む全ての龍たちの瞳を一人ずつ見つめながら、静かに告げた。
「わたくしの唯一の武器は、この手帳に記された知識です。母から受け継いだ、毒草と薬草の記録。これは人を密やかに殺めるための卑劣な知恵。あなた方のような気高い方々が、人間という種族に対して最も警戒する力でしょう。これをあなた方に預けます」
森がしんと静まり返った。カイは信じられないというように目を見開いている。
「わたくしが、あなた方を裏切らないという誓いの証として」
エメは、深く頭を下げたまま動かない。このあまりにも無謀で愚直な賭けの結果を、ただ待つだけだ。その沈黙は、まるで永遠のように長く感じられた。
やがて目の前に影が差す。長老がゆっくりと一歩エメに近づいたのだ。
エメは息を呑む。彼の乾いた指が、足元の手帳にそっと触れた。エメは思わずぎゅっと目を閉じる。
長老は手帳をゆっくりと拾い上げると、あろうことか、エメの目の前に恭しく差し戻した。驚いて顔を上げたエメを、賢者のような深い瞳がまっすぐに見つめていた。
その瞳に宿っていた氷のような冷たさは消え、深い慈愛の色が満ちている。
「―――その覚悟、確かに受け取った」
長老の声は、静かだが温かかった。
「人の子よ。お前の武器はお前が持て。言葉は時に裏切る。力は時に驕りを生む。だが、その魂の在り方だけは、決して嘘をつけぬ」
長老は、エメの手にそっと手帳を握らせた。
「お前が差し出したのは手帳ではない。お前自身の、魂そのものだ。…カイが、お前を『希望』と言った意味が、この老いぼれにも、すこしわかった気がする」
その言葉に、カイが、そして他の龍たちも息を呑むのがわかった。
「人の子、エメと申したか。今宵は、旅の疲れを癒すがよい。話はそれからだ」
「…はい」
エメはまだ信じられない気持ちのまま、こくりと頷くことしかできなかった。
長老はカイに向き直る。
「カイ。この娘を客人としてもてなせ。何一つ、不自由のないようにな」
「…わかってる」
カイはぶっきらぼうにそう答えたが、その声には安堵の色が隠しきれていなかった。
長老が杖で地面を一度つくと、龍たちは警戒を解き、静かに散っていく。
「……こっちだ。行こう。」
エメはカイに導かれ、龍たちの住処へとその最初の一歩を踏み出した。
案内されたのは、湖畔にそびえる巨木の洞の中だった。光る苔が柔らかな照明となり、床にはふかふかとした毛皮が敷かれている。不思議と温かく居心地の良い空間だった。
「姉さん、紹介する」
奥から現れたのは、穏やかな水面のような瞳を持つ美しい女性だった。
「ようこそ、エメ。わたしはルナ。カイの姉です。そして、こちらは夫のロウ」
火のそばに座るがっしりとした男性が無言で頷く。ルナに促され、エメは月の光を編んだような簡素な衣服に着替えた。張り詰めていた心が、ほんの少し解きほぐされていくのを感じる。
ロウが差し出してくれた木の器には、湯気の立つ香りの良いスープが注がれていた。湖で獲れた白身の魚と、森で採れた木の実。生まれて初めて食べるその料理は、驚くほど温かく、優しい味がした。
その夜。
エメは毛皮の寝床に身を横たえながら、洞の入り口で交わされる姉弟のひそやかな会話を聞いていた。
「…驚いたわ、カイ。あなたが人間を連れてくるなんて」
「掟よりも、大事なものがある。…それだけだ」
カイの静かだが揺るぎない声。その言葉に、エメはぎゅっと胸が締め付けられるのを感じながら、龍の隠れ里での最初の夜にゆっくりと意識を沈めていった。
全てを知った上で何をもたらすのか、と。龍の一族の瞳には、人間への冷たい光が宿っていた。
言葉は無力だ。エメは直感的に悟った。
かつて、彼らは人間の「約束」という言葉に裏切られたのだ。今、どんなに美しく誠実な言葉を並べ立てても、彼らの心に深く刻まれた傷は癒せない。
ならば、自分がこの場で差し出せる、唯一のもの。
エメは静かに、懐深くへと手を入れた。
ざ、と龍たちが身構える気配がする。カイの表情にも緊張が走った。
エメが取り出したのは、一冊の古びて擦り切れた革張りの手帳。母の形見であり、彼女の唯一の武器であり、「お守り」だった。
エメはその手帳を両手で捧げ持つと、ゆっくりと長老の前へ歩み出た。そして彼の足元にそっとそれを置いた。
「わたくしにはあなた方のような力はありません。コランダムの軍勢と戦う術もありません」
彼女は顔を上げ、長老と彼を取り囲む全ての龍たちの瞳を一人ずつ見つめながら、静かに告げた。
「わたくしの唯一の武器は、この手帳に記された知識です。母から受け継いだ、毒草と薬草の記録。これは人を密やかに殺めるための卑劣な知恵。あなた方のような気高い方々が、人間という種族に対して最も警戒する力でしょう。これをあなた方に預けます」
森がしんと静まり返った。カイは信じられないというように目を見開いている。
「わたくしが、あなた方を裏切らないという誓いの証として」
エメは、深く頭を下げたまま動かない。このあまりにも無謀で愚直な賭けの結果を、ただ待つだけだ。その沈黙は、まるで永遠のように長く感じられた。
やがて目の前に影が差す。長老がゆっくりと一歩エメに近づいたのだ。
エメは息を呑む。彼の乾いた指が、足元の手帳にそっと触れた。エメは思わずぎゅっと目を閉じる。
長老は手帳をゆっくりと拾い上げると、あろうことか、エメの目の前に恭しく差し戻した。驚いて顔を上げたエメを、賢者のような深い瞳がまっすぐに見つめていた。
その瞳に宿っていた氷のような冷たさは消え、深い慈愛の色が満ちている。
「―――その覚悟、確かに受け取った」
長老の声は、静かだが温かかった。
「人の子よ。お前の武器はお前が持て。言葉は時に裏切る。力は時に驕りを生む。だが、その魂の在り方だけは、決して嘘をつけぬ」
長老は、エメの手にそっと手帳を握らせた。
「お前が差し出したのは手帳ではない。お前自身の、魂そのものだ。…カイが、お前を『希望』と言った意味が、この老いぼれにも、すこしわかった気がする」
その言葉に、カイが、そして他の龍たちも息を呑むのがわかった。
「人の子、エメと申したか。今宵は、旅の疲れを癒すがよい。話はそれからだ」
「…はい」
エメはまだ信じられない気持ちのまま、こくりと頷くことしかできなかった。
長老はカイに向き直る。
「カイ。この娘を客人としてもてなせ。何一つ、不自由のないようにな」
「…わかってる」
カイはぶっきらぼうにそう答えたが、その声には安堵の色が隠しきれていなかった。
長老が杖で地面を一度つくと、龍たちは警戒を解き、静かに散っていく。
「……こっちだ。行こう。」
エメはカイに導かれ、龍たちの住処へとその最初の一歩を踏み出した。
案内されたのは、湖畔にそびえる巨木の洞の中だった。光る苔が柔らかな照明となり、床にはふかふかとした毛皮が敷かれている。不思議と温かく居心地の良い空間だった。
「姉さん、紹介する」
奥から現れたのは、穏やかな水面のような瞳を持つ美しい女性だった。
「ようこそ、エメ。わたしはルナ。カイの姉です。そして、こちらは夫のロウ」
火のそばに座るがっしりとした男性が無言で頷く。ルナに促され、エメは月の光を編んだような簡素な衣服に着替えた。張り詰めていた心が、ほんの少し解きほぐされていくのを感じる。
ロウが差し出してくれた木の器には、湯気の立つ香りの良いスープが注がれていた。湖で獲れた白身の魚と、森で採れた木の実。生まれて初めて食べるその料理は、驚くほど温かく、優しい味がした。
その夜。
エメは毛皮の寝床に身を横たえながら、洞の入り口で交わされる姉弟のひそやかな会話を聞いていた。
「…驚いたわ、カイ。あなたが人間を連れてくるなんて」
「掟よりも、大事なものがある。…それだけだ」
カイの静かだが揺るぎない声。その言葉に、エメはぎゅっと胸が締め付けられるのを感じながら、龍の隠れ里での最初の夜にゆっくりと意識を沈めていった。
