どれくらい走っただろうか。木々の間を、常人の域を超えた速さで駆け抜ける少年にしがみつきながら、エメは必死に声を上げた。
「離して!あなた、何者なの!?」
「じっとしてろ。振り落とされたいのか」
低い声での返答。エメはぐっと唇を噛んだ。彼の言う通りだった。
やがて、少年が足を緩める。ふと、森の空気が一変したことにエメは気づいた。
乾いた土の匂いが消え、代わりに瑞々しい苔と花の蜜のような甘い香りが満ちている。まるで、世界から切り離された、神々の庭のようだった。
「ここから先は、俺たち『龍』の領域だ。人間は、誰も入れない」
少年が囁く。
(龍と、言った…?)
木々のトンネルを抜けた先で、エメは息を呑んだ。
目の前に広がっていたのは、巨大な湖だった。
空は高く無数の星々が瞬き、湖面はその全てを完璧に映し込んでいる。湖の水は、内側からほのかな青白い光を放ち、あたりを幻想的に照らしていた。その光はまるで、湖の底に巨大なムーンストーンが沈んでいるかのようだった。湖畔の巨大な樹々の洞や苔むした岩陰を住処として、人々が自然と一体化して暮らしている。
(…ここが、彼の住処?)
エメがその光景に圧倒されていると、住人たちが二人の存在に気づき、静かにしかし鋭い警戒心を持って取り囲んだ。その瞳には、人間への長年の不信が宿っているのが、エメにもわかった。少年はエメを隠すようにさりげなく半歩前に立った。
緊迫した空気を破り、最も大きな樹木の洞から、一人の威厳ある老人がゆっくりと歩み出てきた。老人はただエメの瞳をまっすぐに見据え、言った。その声は乾いた葉が擦れるように静かだったが、湖の隅々にまで響き渡った。
「―――人の子よ。お前は、我らに何をもたらす? 新たな『絶望』か。それとも、古の『約束』か」
その問いの意味を測りかね、エメが立ち尽くした時だった。
「待ってくれ、長老」
静寂を破ったのは、あの少年の声だった。彼は、エメと長老の間に割って入る。
「この女を連れてきたのは、俺だ」
「カイ」と長老は、失望を滲ませた声で少年の名を呼んだ。
「なぜ、『人の子』をこの地に。我らが掟を、忘れたか」
カイ、というのか。この少年の名前は。
エメは心の中でそっと反芻した。
「掟は忘れてない」
カイは、長老の視線をまっすぐに受け止める。
「こいつは何も知らない。…まだ、話してない。でも聞いてくれ。俺たちの希望になるかもしれないんだ」
「希望だと? 人の子が?」住人たちが非難の声を上げる。
追い詰められたカイの背中を見ながら、エメは強く拳を握りしめた。
(何が…何なの。絶望? 約束? 分からない。でも、なにか言わなければ。ここで間違えたら、終わる)
エメは、カイの隣にそっと半歩足を踏み出した。
そして、長老の目をまっすぐに見据える。
「お答えします」
凛とした声が響き、カイが驚いたようにこちらを見た。エメは小さく頷き返す。
「長老様。あなた方が仰る『古の約束』が何なのか、わたくしは存じません。ですが、誓って申し上げます。わたくしは、あなた方から何かを奪うためや、傷つけるためにここに来たのではありません」
彼女の声に、住人たちのざわめきが少しだけ静まる。
「わたくしの国ベリルは雨が降らず、民は飢えています。その元凶が、コランダム国にあるのではないかとわたくしは疑っています。わたくしはその真実を確かめるために、あの国へ向かうところでした」
その言葉に、長老が初めて驚きの色を瞳に浮かべた。彼はしばらく黙って湖を見つめ、やがて長い溜息をつく。
「……その言葉、偽りではないようだ。だが人の子よ、お前はまだコランダムが犯した罪の、本当の恐ろしさを知らぬ」
長老は、エメを湖のほとりへと導いた。彼が古びた杖で湖面を一度だけ突くと、星空を映していた水面がすりガラスへと変わり、淡い光の絵のように、過去の光景を映し出した。
そこに映ったのは、古の平和な光景。人間の王たちが、天を突くほど巨大で威厳に満ちた龍たちと、固く握手を交わしている。『古の約束』。
しかし、光景は一変する。卑劣な罠。無数の鉄の鎖。コランダムの紋章をつけた兵士たちが、一頭のひときわ大きく気高い龍を縛り上げ、苦痛の叫びと共に大地から引き剥がしていく。
そして、その龍が囚われたコランダム城の上空にだけ、不自然な雨雲が渦巻き、周囲の国々の大地がみるみるうちにひび割れていく様が、早送りのように映し出された。
言葉を失うエメに、長老が静かに、しかし以前よりも遥かに重い言葉を投げかける。
「人の子よ、今、全てを知った。コランダムに囚われしは、我らが王にして、このカイの父。その上で、改めて問う」
「お前は、我らに何をもたらす?」
「離して!あなた、何者なの!?」
「じっとしてろ。振り落とされたいのか」
低い声での返答。エメはぐっと唇を噛んだ。彼の言う通りだった。
やがて、少年が足を緩める。ふと、森の空気が一変したことにエメは気づいた。
乾いた土の匂いが消え、代わりに瑞々しい苔と花の蜜のような甘い香りが満ちている。まるで、世界から切り離された、神々の庭のようだった。
「ここから先は、俺たち『龍』の領域だ。人間は、誰も入れない」
少年が囁く。
(龍と、言った…?)
木々のトンネルを抜けた先で、エメは息を呑んだ。
目の前に広がっていたのは、巨大な湖だった。
空は高く無数の星々が瞬き、湖面はその全てを完璧に映し込んでいる。湖の水は、内側からほのかな青白い光を放ち、あたりを幻想的に照らしていた。その光はまるで、湖の底に巨大なムーンストーンが沈んでいるかのようだった。湖畔の巨大な樹々の洞や苔むした岩陰を住処として、人々が自然と一体化して暮らしている。
(…ここが、彼の住処?)
エメがその光景に圧倒されていると、住人たちが二人の存在に気づき、静かにしかし鋭い警戒心を持って取り囲んだ。その瞳には、人間への長年の不信が宿っているのが、エメにもわかった。少年はエメを隠すようにさりげなく半歩前に立った。
緊迫した空気を破り、最も大きな樹木の洞から、一人の威厳ある老人がゆっくりと歩み出てきた。老人はただエメの瞳をまっすぐに見据え、言った。その声は乾いた葉が擦れるように静かだったが、湖の隅々にまで響き渡った。
「―――人の子よ。お前は、我らに何をもたらす? 新たな『絶望』か。それとも、古の『約束』か」
その問いの意味を測りかね、エメが立ち尽くした時だった。
「待ってくれ、長老」
静寂を破ったのは、あの少年の声だった。彼は、エメと長老の間に割って入る。
「この女を連れてきたのは、俺だ」
「カイ」と長老は、失望を滲ませた声で少年の名を呼んだ。
「なぜ、『人の子』をこの地に。我らが掟を、忘れたか」
カイ、というのか。この少年の名前は。
エメは心の中でそっと反芻した。
「掟は忘れてない」
カイは、長老の視線をまっすぐに受け止める。
「こいつは何も知らない。…まだ、話してない。でも聞いてくれ。俺たちの希望になるかもしれないんだ」
「希望だと? 人の子が?」住人たちが非難の声を上げる。
追い詰められたカイの背中を見ながら、エメは強く拳を握りしめた。
(何が…何なの。絶望? 約束? 分からない。でも、なにか言わなければ。ここで間違えたら、終わる)
エメは、カイの隣にそっと半歩足を踏み出した。
そして、長老の目をまっすぐに見据える。
「お答えします」
凛とした声が響き、カイが驚いたようにこちらを見た。エメは小さく頷き返す。
「長老様。あなた方が仰る『古の約束』が何なのか、わたくしは存じません。ですが、誓って申し上げます。わたくしは、あなた方から何かを奪うためや、傷つけるためにここに来たのではありません」
彼女の声に、住人たちのざわめきが少しだけ静まる。
「わたくしの国ベリルは雨が降らず、民は飢えています。その元凶が、コランダム国にあるのではないかとわたくしは疑っています。わたくしはその真実を確かめるために、あの国へ向かうところでした」
その言葉に、長老が初めて驚きの色を瞳に浮かべた。彼はしばらく黙って湖を見つめ、やがて長い溜息をつく。
「……その言葉、偽りではないようだ。だが人の子よ、お前はまだコランダムが犯した罪の、本当の恐ろしさを知らぬ」
長老は、エメを湖のほとりへと導いた。彼が古びた杖で湖面を一度だけ突くと、星空を映していた水面がすりガラスへと変わり、淡い光の絵のように、過去の光景を映し出した。
そこに映ったのは、古の平和な光景。人間の王たちが、天を突くほど巨大で威厳に満ちた龍たちと、固く握手を交わしている。『古の約束』。
しかし、光景は一変する。卑劣な罠。無数の鉄の鎖。コランダムの紋章をつけた兵士たちが、一頭のひときわ大きく気高い龍を縛り上げ、苦痛の叫びと共に大地から引き剥がしていく。
そして、その龍が囚われたコランダム城の上空にだけ、不自然な雨雲が渦巻き、周囲の国々の大地がみるみるうちにひび割れていく様が、早送りのように映し出された。
言葉を失うエメに、長老が静かに、しかし以前よりも遥かに重い言葉を投げかける。
「人の子よ、今、全てを知った。コランダムに囚われしは、我らが王にして、このカイの父。その上で、改めて問う」
「お前は、我らに何をもたらす?」
