旅立ちの朝は、嫌になるほど静かだった。
旅装束に身を包んだエメは、侍女のモルガに鍵のかかった小さな木箱を渡した。
「モルガ、これを。わたしが城を出たら、孤児院のシスターに届けて。乾いた土地でも育つ作物の種と、育て方を記した手紙が入っています」
「エメ様…」
「それから、あの畑の苗。時々様子を見てあげて。お願いね」
モルガは、涙をこらえながら何度も頷いた。
城門前での父との別れは、一言二言、言葉を交わしただけだった。その背中は最後まで小さく頼りない。エメを乗せた馬車がゆっくりと王都を後にする。道沿いに、静かに頭を下げる人々。その全てを彼女は目に焼き付けた。
この人たちのために行くのだと、心に誓いながら。
旅が始まって三日。馬車の窓から見えるのは、ひび割れた大地と川床しか残っていない、乾ききった川。国境まであと二日の道のりとなった午後、行列の先頭をいく護衛隊長グランの声が、緊迫した響きを帯びる。
「―――止まれ! 前方に、所属不明の部隊!」
馬車がきしむように止まった。やがて前方から現れたのは、黒地に紅い宝石をあしらった、コランダムの紋章を掲げた一団だった。
その部隊を率いる男が、馬から降りてゆっくりとエメの馬車へ近づいてくる。黒い甲冑に、黒いマント。年の頃は三十代だろうか。柔和な笑みを浮かべてはいるが、その瞳は凍てついた湖面のように、一切の感情を映していなかった。
「お初にお目にかかります、エメ殿下。わたくしはコランダムの王子、ルビウス様が第一側近、コルヴスと申します」
その声は、風が耳を撫でるように丁寧で、柔らかい。
「王子より、未来の妃殿下を一日も早くそして何よりも丁重にお迎えするようにと。これより先、我らが殿下の国境までご一緒させていただきたく」
断る、という選択肢は存在しなかった。「護衛」と称して、こちらの倍以上の数のコランダム兵が行列に加わる。羊の群れに狼が混じりこんだかのように、ベリルの兵士たちは萎縮していた。ここはまだベリルの地。それなのに、もはやここはコランダムの支配下にあった。
エメは嫁ぐ前から、既に見えざる手綱をかけられているのだ。
行列が国境近くの鬱蒼とした森に差し掛かった時だった。
コルヴスが、わざとらしくエメの馬車に声をかけてきた。
「妃殿下、旅のお疲れはございませんか。何か不自由がございましたら、何なりとお申し付けください」
「…ご丁寧にありがとう。心配いらないわ」
エメが遠慮すると、こう続けた。
「王子は聡明な女性をお好みです。我らの期待に応えてくださることを、心から願っております」
言葉は丁寧だが、その裏側から、エメとベリルを見下す傲慢さが透けて見える。
エメは口元が引きつりそうになるのを抑え、淑女の笑みで応酬した。
その直後だった。
突如、先頭の馬が甲高くいなないて暴れ始めた。それを皮切りに、行列全体の馬が何かに怯えるように騒ぎ出す。
「どうした! なだめろ!」
グランやコルヴスの怒声が飛ぶ。森は異常なほど静まり返り、風さえも止んでいた。
「何が、起きてるの…?」
混乱の中、エメの馬車の馬も荒い息をついていた。
その時、どこからともなく、一人の少年がその馬の前にすっと姿を現した。
あの、孤児院の少年。
彼は、怯える馬の鼻面を優しく撫でた。
「……いい子だ。大丈夫」
囁くような声。すると、あれほど暴れていた馬が、ぴたりと動きを止めた。
次の瞬間、一陣の風と共に馬車の扉が音もなく開き、少年がそこに立っていた。
彼は驚きに目を見開くエメの口を素早く手で塞ぎ、もう片方の手で彼女の腕を掴む。その瞳は有無を言わせぬ力強さでエメを射抜いていた。
「じっとして。騒がないで」
エメがただ驚いて彼を見つめていると、少年は彼女をふわりと抱きかかえる。そして、人間業とは思えぬ身のこなしで、馬車の屋根へと飛び乗った。
「殿下! ご無事か!」
外からグランの切羽詰まった声が聞こえ、コルヴスが馬車の扉を乱暴に開け放つ。
しかし、そこは既にもぬけの殻。
エメは風のような速さで、森の奥深くへと連れ去られていた。
腕を掴む少年の力強さと、背後から聞こえる兵士たちの怒号。
一体、何が起きているのか。この少年は、敵なのか、味方なのか。
その極度の混乱に、彼女はなすすべもなく運命に身を任せていた。
旅装束に身を包んだエメは、侍女のモルガに鍵のかかった小さな木箱を渡した。
「モルガ、これを。わたしが城を出たら、孤児院のシスターに届けて。乾いた土地でも育つ作物の種と、育て方を記した手紙が入っています」
「エメ様…」
「それから、あの畑の苗。時々様子を見てあげて。お願いね」
モルガは、涙をこらえながら何度も頷いた。
城門前での父との別れは、一言二言、言葉を交わしただけだった。その背中は最後まで小さく頼りない。エメを乗せた馬車がゆっくりと王都を後にする。道沿いに、静かに頭を下げる人々。その全てを彼女は目に焼き付けた。
この人たちのために行くのだと、心に誓いながら。
旅が始まって三日。馬車の窓から見えるのは、ひび割れた大地と川床しか残っていない、乾ききった川。国境まであと二日の道のりとなった午後、行列の先頭をいく護衛隊長グランの声が、緊迫した響きを帯びる。
「―――止まれ! 前方に、所属不明の部隊!」
馬車がきしむように止まった。やがて前方から現れたのは、黒地に紅い宝石をあしらった、コランダムの紋章を掲げた一団だった。
その部隊を率いる男が、馬から降りてゆっくりとエメの馬車へ近づいてくる。黒い甲冑に、黒いマント。年の頃は三十代だろうか。柔和な笑みを浮かべてはいるが、その瞳は凍てついた湖面のように、一切の感情を映していなかった。
「お初にお目にかかります、エメ殿下。わたくしはコランダムの王子、ルビウス様が第一側近、コルヴスと申します」
その声は、風が耳を撫でるように丁寧で、柔らかい。
「王子より、未来の妃殿下を一日も早くそして何よりも丁重にお迎えするようにと。これより先、我らが殿下の国境までご一緒させていただきたく」
断る、という選択肢は存在しなかった。「護衛」と称して、こちらの倍以上の数のコランダム兵が行列に加わる。羊の群れに狼が混じりこんだかのように、ベリルの兵士たちは萎縮していた。ここはまだベリルの地。それなのに、もはやここはコランダムの支配下にあった。
エメは嫁ぐ前から、既に見えざる手綱をかけられているのだ。
行列が国境近くの鬱蒼とした森に差し掛かった時だった。
コルヴスが、わざとらしくエメの馬車に声をかけてきた。
「妃殿下、旅のお疲れはございませんか。何か不自由がございましたら、何なりとお申し付けください」
「…ご丁寧にありがとう。心配いらないわ」
エメが遠慮すると、こう続けた。
「王子は聡明な女性をお好みです。我らの期待に応えてくださることを、心から願っております」
言葉は丁寧だが、その裏側から、エメとベリルを見下す傲慢さが透けて見える。
エメは口元が引きつりそうになるのを抑え、淑女の笑みで応酬した。
その直後だった。
突如、先頭の馬が甲高くいなないて暴れ始めた。それを皮切りに、行列全体の馬が何かに怯えるように騒ぎ出す。
「どうした! なだめろ!」
グランやコルヴスの怒声が飛ぶ。森は異常なほど静まり返り、風さえも止んでいた。
「何が、起きてるの…?」
混乱の中、エメの馬車の馬も荒い息をついていた。
その時、どこからともなく、一人の少年がその馬の前にすっと姿を現した。
あの、孤児院の少年。
彼は、怯える馬の鼻面を優しく撫でた。
「……いい子だ。大丈夫」
囁くような声。すると、あれほど暴れていた馬が、ぴたりと動きを止めた。
次の瞬間、一陣の風と共に馬車の扉が音もなく開き、少年がそこに立っていた。
彼は驚きに目を見開くエメの口を素早く手で塞ぎ、もう片方の手で彼女の腕を掴む。その瞳は有無を言わせぬ力強さでエメを射抜いていた。
「じっとして。騒がないで」
エメがただ驚いて彼を見つめていると、少年は彼女をふわりと抱きかかえる。そして、人間業とは思えぬ身のこなしで、馬車の屋根へと飛び乗った。
「殿下! ご無事か!」
外からグランの切羽詰まった声が聞こえ、コルヴスが馬車の扉を乱暴に開け放つ。
しかし、そこは既にもぬけの殻。
エメは風のような速さで、森の奥深くへと連れ去られていた。
腕を掴む少年の力強さと、背後から聞こえる兵士たちの怒号。
一体、何が起きているのか。この少年は、敵なのか、味方なのか。
その極度の混乱に、彼女はなすすべもなく運命に身を任せていた。
