侍女のモルガは驚いて言った。

 「エメ様、なりませぬ。ご出発を前になにかあっては…」

 「どうしても、行かなければならない場所があるの。最後だから。どうか聞き入れてちょうだい。」

 その瞳に宿る意志の強さに、モルガはそれ以上何も言えず、黙って頭を下げた。

 ◇

 向かった先は、王都の城壁際に近い、古びた教会が運営する孤児院。

 「薬草に詳しい旅の者です。三日後にはまたこの地を離れますが、何かお手伝いできることはありませんか」

 そう言って微笑むと、人の良さそうなシスターは、何度も頭を下げてエメを迎え入れてくれた。

 彼女がやりたかったことは、一つだけ。
 自分がいなくなった後も、この子たちが少しでも飢えることがないように。この乾いた土地でも育つ作物の知識を、この身で直接伝えること。
 エメは子供たちと一緒に、教会の裏にある小さな畑の土を耕した。泥だらけになるのも構わず、笑い声に包まれて土をいじる時間は、ここ数日の重苦しい気持ちをほんの少しだけ軽くしてくれた。

 だが、問題はやはり「水」だった。
 子供たちが必死に汲んできた、なけなしの水を苗に分け与えながら、エメは自分の無力さを痛感する。知識だけでは、この乾きは癒せない。

 「……ごめんなさい。これだけじゃ、足りませんね」

 エメが子供たちに力なく微笑んだ、その時だった。

 「そんなやり方じゃ、その苗は明日には枯れるぞ」

 不躾な声に振り返ると、一人の少年がそこに立っていた。歳はエメと同じくらいか。森の木の皮のような服を着て、泉のように澄んだ瞳をしていた。

 「……失礼ですが、あなたは?」

 少年はエメの問いに答えずこう続けた。

 「その苗、根の周りの土を固めすぎだ。それに水をやるなら陽が落ちてから一度だけ。昼間にやれば水が蒸発し、土に塩が残るだけだ。余計に土地が死ぬ」

 それは、大地と直接会話しているかのような、根源的な知恵。本で読んだ知識とはまるで違った。王宮の誰よりも植物に詳しいと自負していたエメのプライドが、ひび割れはじめる。

 「…お詳しいのですね」

 「見てればわかる。土が、水が、そう言ってる」

 少年はそう言うと、おもむろに近くの岩陰を指さした。

 「あそこには、ほんの少しだけ地下から水が湧いてる。あんたが植えるべきは、ここじゃなくてあっちだ」

 悔しさから、つい棘のある言葉が出た。

 「ご親切にどうもありがとう。わたくしにはわたくしのやり方がありますので」

 少年は呆れた顔で、ふんと鼻を鳴らした。

 「ふーん。好きにすればいい。植物が可哀想だけどな」

 その一言が、エメの胸に深く突き刺さる。少年はひらりと身を返し、森の中へと消えていった。

 ◇

 夜明け前、エメは誰にも告げず城を抜け出し、孤児院の畑へと走った。
 そして、息を呑む。
 彼女が意地を張った苗は萎れ、彼が呆れながらもこっそり植え替えてくれたのだろう一株だけが、岩陰で朝露に濡れて青々と輝いていた。
 完敗だった。悔しさと、恥ずかしさと、そしてあの不思議な少年への強烈な好奇心。
 エメは、彼が残した苗を大切に土で覆い直した。

 その帰り道、市場を抜けると、ひそやかな声が耳に届いた。

 「聞いたかい? 王女様がコランダムへお嫁に行かれるそうだ」

 「ああ…。我々のために、人質になられるんだ。おいたわしい…」

 エメの足が、止まる。

 「だが、王女様は出発直前まで孤児院で畑を耕しておられたそうだ。まるで、ベリルの大地に舞い降りた聖女様だ、とな…」

 「王女様なら、きっと…」

 聖女? 違う。そんな大それた人間ではない。
 民の祈りが、期待が、あまりにも重く温かい。
 彼女は、それ以上聞いていることができず、逃げるように城へ足を速めた。
 わたしは聖女なんかじゃない。と彼女は心の中で繰り返す。
 これから向かうのは、傲慢な水の国の心臓部。持っていく武器は、祈りや希望ではない。
 母が遺した一冊の古い手帳。そこに記された、静かなる「毒」の知識だけ。

 民の祈りを背に、彼女は毒婦にさえなる覚悟だった。
 この国を、この人たちを守るためならば。
 旅立ちの朝は、もうすぐそこまで迫っていた。