巡回の兵士の足音が、すぐそこまで迫る。
 カイは躊躇わなかった。彼はエメの瞳を見つめたまま一つ頷いてみせると、塔の壁を蹴り、彼女の待つバルコニーへと音もなく着地した。
 幸い兵士達が気づいた様子はない。

 エメが、驚きで言葉を失う。
 彼女を隔てる無骨な黒い鉄格子。それはコルヴスの命で作られた、完璧な鳥かごだった。格子の隙間はすり抜けることができないよう以前のものよりも狭められ、強固な錠前まで取り付けられている。
 カイは、その鉄壁の守りを一瞥すると、抑えきれない感情を吐き出すように言った。

 「…なんだよ、これ。まるで檻じゃないか…!お前、こんなところにいたのかよ」

 その声は、怒りと焦りと安堵が入り混じって震えていた。
 彼は格子にかけた手にぐっと力を込めると、まるで飴細工のようにぐにゃりと捻じ曲げた。
 カイはその人ならざる力で、彼女の鳥かごをいとも簡単に破壊してしまったのだ。

 カイはエメの手を引き、彼女を外へと導き出した。二人の距離が極限まで近づいたその一瞬。エメはカイを見上げ必死に囁く。

 「霊廟へ…!」

 カイはわかった、と目だけで頷いた。

 屋根の上や建物の影を巧みに使い、二人は霊廟へと走った。
 カイの野性の勘と、エメの冷静な状況判断。二人は見事な連携で、兵士たちの目をかいくぐった。ついに霊廟へとたどり着いた二人は、息を殺し、その巨大な石棺の深い影の中へと、その身を滑り込ませた。
 巡回の兵士たちの足音が、どんどんこちらへ近づいてくる。松明の光が、二人の隠れる石棺の上に不気味な影を落としては消えた。エメは心臓が喉から飛び出しそうになるのを必死にこらえる。

 その恐怖に強張る気配を感じ取ったのか、隣のカイがその身をさらに彼女に寄せ、耳元で囁いた。
 それは彼女の緊張を解きほぐすための、そして彼女の存在を確かめるための、たった一言だった。

 「……エメ、大丈夫」

 そして彼は続けた。

 「息を殺すんだ。奴らが通り過ぎるまで、絶対に動くな。」

 (―――今)

 エメの思考が一瞬、停止する。

 (わたしの、名前を呼んだ…?)

 この城に来てからというもの。
 誰も、一度も、わたしの名前を呼ばなかった。
 ルビウス王子は、名前を呼ぶどころか、「宝石」か「石ころ」かと、値踏みした。

 でも彼は。カイは。
 今、わたしを呼んだ。「エメ」と。

 その事実が、すぐそこに迫る兵士への恐怖よりも強く、エメの心を揺さぶった。
 胸の奥からこみ上げる温かい何か。彼女はただ、こくりと頷くことしかできなかった。

 やがて、兵士たちの話し声が、すぐ近くで聞こえた。
 「…こんな気味の悪い場所に、誰かいるわけないだろう」
 「早く持ち場に戻ろう。ここはどうもいけない」
 幸運にも、兵士たちは中を改めようとはせず、足音はゆっくりと遠ざかっていく。

 完全な静寂が戻った。
 二人はしばらく何も言えないでいたが、やがて、カイが静かに口を開いた。

 「…見つけたのか。あの、『紋章』を」