エメはほとんど眠れずに朝を迎えた。
昨夜のコルヴスとのやり取りが、何度も頭の中を駆け巡る。彼の全てを見透かしたような笑み。
昨夜の彼女の無謀な試みは、この鳥かごを、より強固な牢獄へと変えてしまった。あの美しい金の格子は取り外され、新たに無骨な鉄格子がはめられエメの部屋に悲しく影を落としている。もう中途半端な探りは通用しない。下手に動けば二度と真実へは近づけないかもしれない。
完全に手詰まりだった。
(…もう、これしかない)
エメは、湖の畔で託されたムーンストーンを握りしめていた。ひんやりとした石の感触が、絶望に沈みそうな心をかろうじて繋ぎとめる。
本当にこの石が、彼に繋がるのかわからない。罠だったとしたら?
(…いいえ。)
その熱は距離を超えると長老は言った。
忘れるな。とカイは言った。
(信じるしかない。わたしを信じようとしてくれた、あの人たちを。)
その夜。
部屋に月の光が差し込むのを待って、エメは窓辺に膝をついた。
そして、全ての意識を手の中のムーンストーンに集中させた。
目を閉じ、心の中で強く、強く、思い描く。
羊皮紙に描かれた「太陽の紋章」を。「夜、最も暗い場所」であるあの霊廟を。
そして、最後に。
(…カイ。助けが、必要です)
その、切実な祈りを込めて。
◇
その遥か彼方。要塞が遠くに見える森の大木の上で、カイは息を潜めていた。
あいつは無事だろうか。行列を率いていたあのいけ好かない男は、何か気づいたんじゃないか。
焦りと苛立ち。何もできない無力感が、彼の心を蝕んでいた。
その瞬間だった。彼が首から下げている、対となるムーンストーンが、ふわりと温かい光を放ち始めた。
カイがはっとしてその石を掴むと、彼の脳裏に直接イメージが流れ込んでくる。
ぼんやりとした「太陽の紋章」。糸杉が等間隔に並んでいる「暗い場所」。
―――そして、「助けて」という、エメの声にならない心の叫び。
カイは目を見開いた。繋がりは、本物だった。あいつは助けを求めている。そして、彼はその「太陽の紋章」に見覚えがあった。龍の一族と関わりの深い、『日向の氏族』だ。カイの顔からいつもの不機嫌さが消え、覚悟を決めた鋭い表情が浮かぶ。
「……馬鹿野郎。今、行く」
彼は大木の枝から地面へと音もなく飛び降り、黒い一陣の風と化して要塞へと疾走を開始した。
カイが城塞へ潜入を試みるのは、初めてではなかった。
彼にとって、城壁そのものを越えるのは造作もない。だが、その内側は常に奇妙な「作り物」の気配に満ちていた。うかつに足を踏み入れれば、どんな罠が待ち受けているか分からなかった。その異様な気配の中にかすかに父を感じ、その事実が彼を迷わせ、今まで動くことができずにいた。
だが今は違う。内側との繋がりが、確かにある。怖気づいている場合ではない。
コランダムの黒曜石のような城壁。カイは石のわずかな凹凸に爪を食い込ませ、重力を無視するかのようにその絶壁を駆け上がっていく。
ついに城壁の内部へと潜入した彼は、屋根の上に身を潜め、眼下の要塞を観察した。
(…あいつの気配だ)
カイは音もなく屋根を伝い、死角へ身を潜めながら、エメのかすかな気配を探す。ふと、黒い鉄格子がはめられたバルコニーが目に止まる。その部屋は、他の部屋よりも明らかに厳重に警備されているようだった。
月明かりの下、そこにひっそりと佇む栗色の髪の少女。
それは、間違いなくエメだった。
彼女は空を見上げ、何かを案じているように見えた。
カイは衝動的に彼女の名前を呼ぼうとするのを、寸前で押しとどめた。今はまだ危険すぎる。彼は近くの塔の壁から、彼女にだけ見えるようにそっと手を振った。
エメは突然、視界の端に動くものを感じ、はっとそちらを見た。
そして、闇の中に佇む見慣れた影を見つけた瞬間、彼女のエメラルドの瞳が大きく、大きく見開かれる。
(カイ…!?)
信じられないという驚愕の表情を浮かべ、彼女もまた、控えめに手を振り返した。
二人はただ、月明かりの下で見つめ合う。
その沈黙を破ったのは、複数の兵士たちの鉄の足音だった。
昨夜のコルヴスとのやり取りが、何度も頭の中を駆け巡る。彼の全てを見透かしたような笑み。
昨夜の彼女の無謀な試みは、この鳥かごを、より強固な牢獄へと変えてしまった。あの美しい金の格子は取り外され、新たに無骨な鉄格子がはめられエメの部屋に悲しく影を落としている。もう中途半端な探りは通用しない。下手に動けば二度と真実へは近づけないかもしれない。
完全に手詰まりだった。
(…もう、これしかない)
エメは、湖の畔で託されたムーンストーンを握りしめていた。ひんやりとした石の感触が、絶望に沈みそうな心をかろうじて繋ぎとめる。
本当にこの石が、彼に繋がるのかわからない。罠だったとしたら?
(…いいえ。)
その熱は距離を超えると長老は言った。
忘れるな。とカイは言った。
(信じるしかない。わたしを信じようとしてくれた、あの人たちを。)
その夜。
部屋に月の光が差し込むのを待って、エメは窓辺に膝をついた。
そして、全ての意識を手の中のムーンストーンに集中させた。
目を閉じ、心の中で強く、強く、思い描く。
羊皮紙に描かれた「太陽の紋章」を。「夜、最も暗い場所」であるあの霊廟を。
そして、最後に。
(…カイ。助けが、必要です)
その、切実な祈りを込めて。
◇
その遥か彼方。要塞が遠くに見える森の大木の上で、カイは息を潜めていた。
あいつは無事だろうか。行列を率いていたあのいけ好かない男は、何か気づいたんじゃないか。
焦りと苛立ち。何もできない無力感が、彼の心を蝕んでいた。
その瞬間だった。彼が首から下げている、対となるムーンストーンが、ふわりと温かい光を放ち始めた。
カイがはっとしてその石を掴むと、彼の脳裏に直接イメージが流れ込んでくる。
ぼんやりとした「太陽の紋章」。糸杉が等間隔に並んでいる「暗い場所」。
―――そして、「助けて」という、エメの声にならない心の叫び。
カイは目を見開いた。繋がりは、本物だった。あいつは助けを求めている。そして、彼はその「太陽の紋章」に見覚えがあった。龍の一族と関わりの深い、『日向の氏族』だ。カイの顔からいつもの不機嫌さが消え、覚悟を決めた鋭い表情が浮かぶ。
「……馬鹿野郎。今、行く」
彼は大木の枝から地面へと音もなく飛び降り、黒い一陣の風と化して要塞へと疾走を開始した。
カイが城塞へ潜入を試みるのは、初めてではなかった。
彼にとって、城壁そのものを越えるのは造作もない。だが、その内側は常に奇妙な「作り物」の気配に満ちていた。うかつに足を踏み入れれば、どんな罠が待ち受けているか分からなかった。その異様な気配の中にかすかに父を感じ、その事実が彼を迷わせ、今まで動くことができずにいた。
だが今は違う。内側との繋がりが、確かにある。怖気づいている場合ではない。
コランダムの黒曜石のような城壁。カイは石のわずかな凹凸に爪を食い込ませ、重力を無視するかのようにその絶壁を駆け上がっていく。
ついに城壁の内部へと潜入した彼は、屋根の上に身を潜め、眼下の要塞を観察した。
(…あいつの気配だ)
カイは音もなく屋根を伝い、死角へ身を潜めながら、エメのかすかな気配を探す。ふと、黒い鉄格子がはめられたバルコニーが目に止まる。その部屋は、他の部屋よりも明らかに厳重に警備されているようだった。
月明かりの下、そこにひっそりと佇む栗色の髪の少女。
それは、間違いなくエメだった。
彼女は空を見上げ、何かを案じているように見えた。
カイは衝動的に彼女の名前を呼ぼうとするのを、寸前で押しとどめた。今はまだ危険すぎる。彼は近くの塔の壁から、彼女にだけ見えるようにそっと手を振った。
エメは突然、視界の端に動くものを感じ、はっとそちらを見た。
そして、闇の中に佇む見慣れた影を見つけた瞬間、彼女のエメラルドの瞳が大きく、大きく見開かれる。
(カイ…!?)
信じられないという驚愕の表情を浮かべ、彼女もまた、控えめに手を振り返した。
二人はただ、月明かりの下で見つめ合う。
その沈黙を破ったのは、複数の兵士たちの鉄の足音だった。
