その日も、
残業からしれっと逃げようとした同期の首根っこをつかんでデスクに引きずり戻した。

会社を出たのは19時半。ましなほうか。
「何食ってく?」
「んー、どうしよっかな」
ベルトコンベアーに乗るみたいに駅前の雑踏に流されていく。まだちょっと暑いな。秋、まだかな。
「俺ん家来る?」

なんでもないようにさらっと言うな。そんなお誘い初めてだぞ!!

「き、きみってどこ住みだっけ」
「銀座線沿い。アンタは都営浅草線だったっけ?」
「何で知ってんの」
返事の代わりに彼は小さく歌いはじめた。あ、「モーツァルト!」。

「俺さぁ」
行き先も決めずにJR上野駅までたどり着いた。彼が、上半身を折り曲げるようにして私を見下ろす。
「アンタを怒らせんの好きなの」
そっと、
そよ風のように私の唇をなぞった、初めての甘さ。
レモンでもライムでもない。でも、ふんわり甘い。プレーンの柔らかいフィナンシェみたい。

と、
次の瞬間、彼がその場にうずくまった。