朝陽は早退した。
学校にいたらやたらイライラして落ち着かない。珍しく勉強しようとも思ったが、集中出来なかった。というわけで早退した。これだと今年は留年すらさせてもらえないかもしれない。溜息交じりに玄関の扉に手をかけた――。
「あ! 朝陽ちゃん!」
愛子――ではない。女性の声で、聞き覚えもある。あまり好きな声ではなかったが、自分の名前を呼ぶのだから振り向かないわけにもいかなかった。
「――美華子さん」
美華子とは、朝陽より五歳年上の女性。モデルをやっていてとてもスタイルがいい上に美人。セミロングの金髪はブリーチしているはずなのに痛んでいる様子もなくキューティクルを保っている。メイクもバッチリで、真っ赤な唇はツヤツヤ。肌荒れも全くない。ほとんど布面積のないショートパンツからは長くて白い足が大胆に伸びていた。気さくで明るく、花が咲いたような笑顔が印象的。朝陽は自分とは違って誰からも好かれる美華子にコンプレックスを抱いていた。
「こんにちは! 今日学校は休みなの?」
「ちょっと体調が悪くて、早退しました」
「そうなんだ……大丈夫?」
優しく頭を撫でてくれるが、嬉しくない。五歳年下だからって子ども扱いはやめてほしい。しかめっ面を見られまいと視線を逸らし、言葉だけで返す。
「大丈夫です」
「そう?」
美華子は朝陽に視線を合わせて顔を覗き込んでくれるが、頑として目を合わせなかった。なぜなら――。
「ところでさ、月いる?」
彼女は月の幼馴染み――兼、彼女だから。
「……いるんじゃないですか」
「呼んでもらえる?」
「……待っててください」
「うん、ありがとう!」
彼女の眩しい笑顔に、自分は影だと思い知らされる。それが苦しい。玄関を開けて扉を閉めると、そっとお腹を撫でた。
居間に行くと、月が一人でテレビを見ていた。月の仕事はデイトレーダー。株の取引は十五時までだから、それ以降はテレビを見ていることが多い。
綺麗な横顔を見つめていると月が朝陽に気づき、向き直った。
「おかえり」
「……ただいま」
美華子が待っていると伝えなければならないのに、上手く言葉に出来ない。美華子の存在を知ったら、彼女の元へ行くに決まっている。
「体調は?」
「え?」
「早退してきたんだよね? ひどいの?」
そんな風に心配しないでほしい。苦しくなる――そう言葉にすることすら出来ない。
黙ってうつむいていると、月が立ち上がって朝陽の元へ近づいてくる。
「朝陽」
大きくて骨ばった手が頬に触れる。その手に自分の手を添える――。
「「ただいまー!」」
その時、元気な二人の声が聞こえてきて、結と星がパタパタと居間まで走ってきた。朝陽は慌てて月から距離を取る。月の行き場をなくした手はそのまま空で止まっていた。
「月君!」
「お兄ちゃん!」
「「みかこちゃんが外で待ってるよ!」」
朝陽が伝えなければ月は美華子の元へ行かなかったかもしれないが、残酷にも無垢な二人が伝えてしまった。
「そっか。教えてくれてありがとう」
「「うん!」」
空で止まっていた手は幼い二人の頭へ移動した。二人は無邪気な笑顔。
月が玄関へ向かう。遠ざかって行く背中に「行かないで」とは言えなかった。
二人は階段へ向かおうとした所で、月に隠れて見えなかった朝陽を見つけた。
「朝陽ちゃん!」
結が気づき、嬉しそうに駆け寄ってくる。その後を星も着いてきた。急いで笑顔をつくろう。
「おかえり、二人とも」
「「ただいま!」」
二人が元気に返事をする。
「体調大丈夫?」
結が心配そうに見上げてくる。
「まぁまぁかな」
今度は星。
「つわりってしんどい?」
「ちょっとね」
二人は顔を見合わせる。幼いながらも気を遣ってくれている様子を微笑ましく思った。
「私は大丈夫だから。早くランドセル置いておいで」
「「うん!」」
元気よく返事をすると、二人は急いで廊下を走り、階段を駆け上がって行った。
朝陽も自室へ向かおうと、二人を追うように階段へ向かう。その道中で見えてしまった――玄関先で仲睦まじく談笑する月と美華子が。
月は身長が高く、百八十を超えている。美華子もモデルなだけあって百七十近い。二人とも容姿が整っている上に仲がよく、並んでいるとお似合いの恋人にしか見えなかった。
それに比べて朝陽は百六十もない。長身である月の隣に並んだら親子のように見えてしまう。正直、美華子がうらやましかった。だからこそ、素直に好きになれないのだろう。
そんな二人を尻目に階段を上がって行った。
「あれ? 朝陽ちゃん?」
美華子が朝陽に気づき、その視線を辿って月も階段の方へ目を向ける。朝陽の背中が見えただけだった。
「どうしたの? 何か体調悪いんだって?」
「うん」
さすがに妊娠したとは言いづらかった。
「心配だねぇ?」
悪戯な笑みに月は視線を外す。
「今日はやめとくか」
「え?」
「朝陽ちゃんの傍にいたいでしょ?」
だが、今日はずっと前から約束していた――。
「モデル足りないんじゃなかった?」
「いいよ。こっちでなんとかするから」
美華子はポンポンと月の肩を叩く。
月は容姿のよさから、時々美華子にモデルのバイトを頼まれていた。今日もそのバイトに誘われていたのだが、美華子は気をつかってくれるらしい。
「あ。それと、これ」
美華子は小さなショルダーバッグの中を探して封筒を取り出し、月に差し出した。
「何?」
「招待状」
「何の?」
「結婚式の」
「誰の?」
「私の!」
「え!?」
突然のことで月は素直に驚いた。
「聞いてないけど?」
「言ってないもん」
「言えよ」
少しばかりの怒気が含まれた声に大笑いする美華子。
「言えないんです~。これでも芸能人ですから! 近々公表するけどね」
「あっそ」
二十年来の幼馴染みなだけに少し寂しい気もするが、職業柄納得せざるを得ない。
「月も早くいい人見つけな――あ、好きな人いるんだっけぇ~」
そう言いながら階段の方を覗き込んだ。
「やめろ」
すっかり不機嫌になってしまった月をいつまでもからかうのはよろしくない。
「私を見習って早く結婚するのね。朝陽ちゃんと。じゃないと誰かに取られちゃうよ?」
無視。
「おい。無視すんな」
手を伸ばして月の頭を軽く叩く。月は鬱陶しそうに距離を取った。
「もう取られたかも」
「え? 嘘でしょ? 何? 朝陽ちゃん彼氏出来たの?」
「教えない」
「マジ!?」
肯定と受け取られてしまった。
「月でもフラれんだね? 同じ人間だって安心したよ」
「どこで安心してんだよ」
月は力が抜けたように取次に腰を下ろす。心底参っている様子を心配し、励まそうと言葉を探す。
「まぁ、でも、結婚するわけじゃないんでしょ? まだチャンスはあるって」
「そうだといいけど」
ここまで凹んでいる月を見たのは初めてだ。
「分かった!」
「何が」
「結婚式に朝陽ちゃんも招待する! だから、二人でおいでよ!」
「二人で?」
だが、朝陽は妊娠中だ。つわりがひどければ行けない。
「――結婚式っていつ?」
「三ヶ月後ぐらい! まだまだ準備中なんだ~」
それぐらいには安定期に入ってるだろうか――。
「行けたら行く」
「こないやつ!!」
