「朝陽」
「……んえ?」
寝ていたところを起こされて変な声が出たが、それが夢なのか現実なのか区別がつかない。月が見下ろしているのだけは分かった。
「何?」
「起きて」
「何で?」
「出かけるって言ったでしょ」
「どこに?」
「それはナイショ」
どの問いにも明確な返答がない。月は何をしようとしているのか――。
少しずつ頭が覚醒してきて、そうだ、と思い出す。昨日明朝に行きたい場所があると言っていた。こんな時間にどこに行こうというのか。
「体調は?」
そこはちゃんと心配してくれるのか。
「まぁ、大丈夫なんじゃない?」
安定期には入っているし、吐き気もない。一度激痛が襲ったが、退院した時には母子ともに問題ないと医師から言われている。多少なら大丈夫だろう。
「そっか」
月は時計を見た。朝陽も月の視線を追って時計を探す――時間は五時。随分早起きだ。
「準備して」
「えー」
「お願い」
「……うん」
惚れた弱みだろうか、月に言われると弱い。
月は居間で待っている、と部屋を出て行った。適当な服に着替える。最近急激に冷え込んだ。この時間は絶対に寒い。ダウンを着こんだ。下はTシャツにジーパン。着替え終わると、居間まで移動する。
「行こう」
月に手を差し出されて、その手を取った。ストーブもこたつも電気も切ると、冷たい真っ暗闇に包まれる。だけど、月の手は暖かかった。冷え切った手がその暖かさに溶けていく。手探りで玄関を出ると、月の車に乗せられた。仕事上、基本的に家から出ないため、車に乗ることはめったにないが一応持っている。黒色の軽自動車はほとんど乗らないため、四年経った今でも新品のように綺麗だ。月が運転席に座り、朝陽が助手席に座る。シートベルトをすると、軽自動車がゆっくりと走り出す。朝陽は不安だが、月の表情は特にいつもと変わらない。
「運転いつぶり? 大丈夫?」
「大丈夫。この前ちょっと練習したから」
「どこに行ったの?」
「ここら辺適当に走っただけ。朝陽を乗せるのに何かあったらまずでしょ」
どこかに行く目的ではなくて、自分のために練習してくれたらしい。悪い気はしなかった。むしろ嬉しかった。
未明の道路はかなり空いていた。月が運転になれていたら、もっと快適だったかもしれないが、それは言わないでおこう。車窓から見上げる夜空は高いビル群に切り取られて小さくなっていた。家の中庭から見ていた時よりは遥かに大きいが。
三十分ほどで目的地に着いたらしい。車が停まる。ビルの駐車場のようだった。
「こんな所に停めていいの?」
「うん。ちゃんと許可は取ってあるから」
何をしようと言うのだろうか――。
月にうながされ、二人で車を降りる。月が発した言葉に度肝抜かれた。
「じゃあ、入ろう」
「……どこに?」
「ビルの中に」
朝陽は月が指さしたビルを見上げる。天高くそびえ立つその建物は何十階とありそうだ。
「入っていいの?」
「うん。許可は取ってあるから」
何で許可が取れたんだ、という疑問は頭には浮かんだが言葉にはならなかった。驚きすぎたのか、訊いてはいけないと思ったのか分からないが。
「行こう」
家を出る時と同じく手を差し出してくる。その手を取る。手を引かれながら、ビルを見上げる。ここは何の建物なんだろう、とか。こんな所の許可が取れるなんて月は何者なんだろう、とか、様々な疑問が浮かんでは消える。
月は裏口を探し当て、そこから中に入る。入ってすぐの所に警備員さんがいて、月は何か説明していた。業者用の入口なのだろう。名前だけ書かされて、また先に進む。去り際、仏頂面で壮年の警備員さんに軽く会釈されて朝陽も会釈を返した。薄暗い通路を歩いて行くと扉があり、そこを開けると別世界が広がっていた。まるで閉店後の美術館のようだ。これだけ立派なビルだ。デザインにもさぞ凝っているのだろう。どこまでも高い天井を見上げていると、首が痛くなりそうだと気づき、やめた。月の足が止まったので前方を確認するとエレベーターの前だった。上へ行くボタンを押すと、すぐに扉が開く。エレベーターの一番のストレスである待ち時間が全くなかった。これはかなり気分がいい。二人で乗り込むと、月は一番上のRのボタンを押した。
「屋上?」
「そう」
「入れるの?」
「大丈夫、許可は取ってあるから」
「何でそんな許可取れたの?」
ずっと我慢していたが、たまらず訊いてしまった。
「ナイショ」
訊いた意味がなかった。
何十階という階数が一瞬にして通りすぎ、屋上で止まる。月に手を引かれて降りる。一瞬だけ室内を通り、自動ドアが開くと、一番に目に入ったのは圧巻の星空だった。さっきまでビル群に切り取られていたとは思えないほど、広く、そして、近い。まるで手が届きそうなほどに。星だけではなく、月も燦然と輝いている。東京でもこんな夜空が見られるのかと感動した。
「有明ってどういう意味か知ってる?」
夜空に見惚れていると、月が話しかけてくる。
「苗字の話?」
「そうだけど、そうじゃない」
「どういう意味なの?」
月はスマホで時間を確認する。
「もうちょっとだよ」
「何が?」
「有明」
何の話をしているのやら。
「ちょっと座ろう」
よく見ると、椅子やテーブルが置いてある。月に手を引かれ、椅子に座っているようにうながされたので座る。月は「待ってて」と言ってから近くの自動販売機へ向かった。数分で戻ってくると、缶のコーンスープを差し出される。月の手には缶コーヒー――あの時と一緒だ。
お礼を言ってから受け取ると、満足そうに笑って対面に座り、缶コーヒーを飲み始める。朝陽もコーンスープを一口飲んだ。優しい暖かさが体に染み込む。
月はしきりにスマホで時間を気にしていた。有明とは何なのだろう――苗字ではあるが、苗字だからこそ身近すぎて気にしたことがなかった。スマホを置いてきてしまったから調べることも出来ず、もやもやする。
コーンスープを飲み終わった頃、もう一度空を見上げてみた。さっきよりも明るくなってきた空にはまだ月が輝いている。
「――月が綺麗ですね」
言葉が漏れた。
月は驚いた後、微笑む。
「有明って、夜と朝の間なんだよ」
「え?」
視線を向ける。柔らかい眼差しだった。
「ずっと考えてたんだ。その答え。十年前からずっと」
東の空が明るくなる。月はその明るさに引きよせられるように視線を向けた。
「――朝陽が眩しいです」
視界が歪む。頬が濡れる。
アイラブユーを「月が綺麗ですね」と誰かが訳したらしい。その返答にふさわしい言葉は誰も見つけられていないかもしれない。
だけど、朝陽と月の二人の中では、これが正解でいいと、そう思えた。
