その二階建てのアパートは築二十年の代物で、外観はかなり年季が入っている。だが、ワンルームの内装はリフォームしてあるので多少マシに見えた。
二階の一番端の角部屋の前に立って、人差し指を突き出す。
呼び鈴が鳴り、優人は夕飯を中断して玄関へ向かい、扉を開けた。
「はーい」
宅配などは頼んでいないはずだが――。
「朝陽?」
そこに立っていたのは、まさかの朝陽だった。
「入るね」
「え」
問答無用で優人を押しのけ、部屋に入る。スマホでテレビを見ていたのか、バラエティ番組がつけっぱなし、その目の前には食べかけのカップ麺が置いてあり、畳の床には大学院で使うのか資料が散乱していた。
「きったなぁ」
朝陽は眉間に皺を寄せながらも、座布団の上に座った。目の前にはカップ麺が置いてあるので、さっきまでここに優人が座っていたのだろう。
「文句言うんやったら片付ける時間ぐらいくれ。アポなしで来んな」
「これ美味しい?」
カップ麺は王道の白色が基調で赤い模様が入ったものだった。
「美味いから長年愛されてんねやろ」
「へー」
先程まで優人が使っていたであろう箸を手に麺をすすり始める。
「勝手に食うな!」
「まぁまぁだね」
「じゃあ食うな!」
「ちょっとお腹空いてんの。チャンネル変えていい?」
「来るなり好き勝手しすぎやねん!」
「まぁ、ここが第二の家だしね」
「初めて聞いたわ!」
優人は散乱している資料を集めながらツッコむという高等テクニックをこなしつつ、危ないものが見えるところにないかと目視で確認する。
「面白い番組ないねー」
「テレビスタッフに謝れ」
「ごちそうさま」
「俺の夕飯!!」
あっという間に完食されてしまい、優人のお腹は満たされずに夕飯が終わった。
絶望しつつもあらかた片づけ終わったので、本題に入る。
「で、何の用?」
「泊めてもらおうと思って」
「何でやねん。家帰れや」
夕飯を横取りされてしまったため、かなり不機嫌。
「家にはいづらいんですー」
勝手にベッドに横になるなと言いたいのをぐっとこらえ、朝陽を気づかう。
「何かあったんか?」
「まぁね」
「何があったんや?」
現状を確認するべく、問うてみるが、朝陽はなかなか話さない。
「――どうせ、月さんやろ?」
「別に」
「図星やん」
朝陽が黙る。天井を見つめている朝陽を見つめた。じっと返答を待つ。
「お風呂に入らなきゃいけないじゃん?」
「――はい?」
「お風呂から出たら髪を乾かさなきゃいけないじゃん?」
「……はぁ」
「そういうこと」
「どういうこと?」
いまいち何を言いたいのか分からない。
「お風呂だけ貸してくんない?」
「うちユニットバスやで? 有明家みたいに立派なもんやないで?」
「いいよ、何でも」
「じゃあ、ええけど」
「お風呂から出たら髪乾かしてくれる?」
「自分でやれ」
「やっぱりそうなるよね~」
「何が言いたいねん、さっきから」
「そういうこと」
「だから、どういうこと?」
朝陽はベッドから下り、リュックから着替えを抜き取ってユニットバスへ向かった。
今のうちにと優人は部屋を片づける。資料を集めてファイルにしまい、空になったカップ麺の容器を捨て、危ないものがないか再度確認し、ベッドメイクまで終わらせると、朝陽がユニットバスから出てきた。
優人は急いで移動し、さも、ずっとテレビ番組を見ていましたよ、と言わんばかりにスマホを凝視した。
「ドライヤーどこ?」
「そこ」
ラックを指差し、そこからボックスを取り出すと、中にドライヤーを見つけ「借りるね」と一言断ってから使い始める。
「あー、やっぱり髪乾かすの面倒だわー」
「いつもやってるんちゃうんか」
「えー? 何ー?」
「何でもない」
ドライヤーの音であまり聞き取れなかった。
朝陽は自分で髪を乾かしながら月のことを思い出していた。風呂から出たらいつも月に乾かしてもらっているが、今日はそんな気になれなかった。だからといって風呂に入らないわけにもいかない。だから、優人の家に押しかけてきたのだった。
ドライヤーをしながら、目の前の本棚が気になった。どこか違和感があった。じっと見ていると、気づく。堅苦しい本の中に数冊可愛らしいポップな文字が浮かんでいた。朝陽はいったんドライヤーを中断して、その中から一冊手に取った。
「ドライヤー終わったんか?」
朝陽の髪の長さにしては早いと思い、そっちの方を向くと、朝陽の持っている本に気づく。「げ」と声が出たと同時に急いで近寄り、取り上げた。本棚の前に移動して背に隠す。
「何?」
「……いや」
どう見ても怪しい。
「何かやたら妊娠に詳しかったよね?」
「誰だって知ってるやろ、妊娠ぐらい」
「男の優人が?」
「まぁ……知ってて損はないやんか」
「どんなきっかけで興味持ったの?」
「それは……まぁ、母親のことを思い出して……」
「おばさんのこと嫌いだよね?」
焦るとまともな言い訳すら思いつかなくなる。どう考えても苦しい。黙ってしまった。
優人の本棚に置いてあったのは――育児本。
「いつ?」
「え?」
「相手の人が妊娠したのって、いつ?」
「――さあ?」
「姉さんにバラそうかな」
ちょっと意地悪かも、と思ったが意外な返答がきた。
「別にええけど」
驚きから一瞬口をつぐんだ。だが、すぐに正気に戻る。
「いいの? 隠し子いたら姉さんどう思うか分かんないよ?」
「何とも思わんて」
「そんなわけないじゃん。気にするに決まってるよ」
「せーへんって」
「何でそんな自信満々に言えるの?」
また優人が黙る。
かなり追い込まれている。優人に子どもがいたなんて知らなかったが、相手が誰なのかも分からない。優人には今まで彼女すら出来たことがない。いや、朝陽が知らないだけかもしれないが。
「子ども、いつ生まれたの?」
「――忘れた」
「そんなわけないでしょ」
こんなに分かりやすい嘘をつくのはらしくない。頭が回っていない証拠だ。
「誰の子?」
「忘れた」
「そんなわけないじゃんって」
育児本を買うくらいだ。積極的に育児に参加しようとしているに違いない。立派なことだ。何を隠す必要があるのだろう。
「そんなに後ろめたいことなの?」
「そんなんやない」
「じゃあ何で言えないの?」
「何で朝陽に全部話さなあかんねん」
そう言われたらそうかもしれない。
「話したくないってこと?」
「そういうこと」
「ふ~ん。じゃあ、いいや」
朝陽は諦めてドライヤーを再開した。
優人は本棚に本を戻し、スマホを手に取った。テレビのアプリを閉じ、連絡帳を開き、その中から愛子を選択してメッセージを送る。すぐに返信がきた――迷惑かけてごめん。すぐに迎えに行く、と。
有明家から優人の家まではそんなに遠くない。二十分もあれば着けるだろう。そう思いながら了承の旨の返信をした。
朝陽はドライヤーを終えると、カバンの中から財布を取り出し、優人に三百円渡す。
「何?」
「カップ麺代」
「ああ」
完食してしまったことを少なからず申しわけないと思っていたらしい。
「っていうか、飯食えるんやな」
よく考えるとこの前までカットフルーツしか食べていなかった。それを思うと、カップ麵が食べられるのはいいことなのかもしれない。
「まぁね。だいぶ吐き気もなくなったし」
「でも、カップ麺はあんまり体によくないんやから、食べるものには気をつけなあかんで」
「やっぱり詳しいね?」
「俺も風呂入ろー」
そう言って今度は優人がユニットバスへ向かった。
朝陽は特に引きとめることはせず、優人の背を見送った。シャワーの音が聞こえると、ユニットバスを確認しつつ、本棚へ向かう。そこに並んでいた育児関係の本は全部で六冊。妊娠に関しての本から父親用の育児本まで多種多様。少し古いもののようだ。古本屋で買ったのかもしれない。一冊手に取って読んでみる。確かに優人が言っていた通りのことが書いてあった。お腹の中にいても外の声は聞こえているらしい。ネガティブな言葉を発すると、生まれた子どももネガティブな性格になってしまう――なんて本当か嘘か分からないようなことも書いてあった。
夢中になって読んでいると、そのうちシャワーの音が消えていることに気づく。慌てて本を本棚に戻し、ベッドの横に移動すると、優人がユニットバスから出てきた。
「お、おかえり~」
「何やねん、おかえりって。ここ俺の家やし」
「……だよね」
何か声をかけなければと慌てて出した言葉が何故か「おかえり」だった。どちらにしろ風呂から出てきた人間にかける言葉なんて分からないが。
その時、呼び鈴が鳴った。
「きたきた」
「え?」
優人はタオルで頭を大雑把に拭いてから、玄関の扉を開ける。すぐに愛子が入ってきた。
「朝陽、帰るよ」
朝陽が「裏切ったな」と優人に視線を送る。
「何で姉さんが優人の家知ってんのよ」
「「え」」
朝陽としては何気なくつぶやいた言葉だった。ただの苛立ちであって深い意味はない。連絡先を知っているのだから住所を聞いたのだろう、とそれだけだった。だが、二人の反応がおかしい。
「何でって……」
「それは……」
二人は顔を見合わせたり、視線を彷徨わせたり、ぎこちない反応。何でこんな反応をするのだろう――朝陽は考える。
今までのことが走馬灯のように頭の中をすぎ去った。妊娠に詳しいこと、育児本――しかも少し古い――を持っていること、隠し子がいると愛子に言っても顔色を変えなかったこと――。
「なるほどね~」
面白いようにピースがはまり、朝陽は気づいた。まるでドラマの中の探偵にでもなった気分だ。なるほど、こんなに気持ちのいいものなのか。それにしても残酷な事実だ。
――だが、確信を口にせずにはいられなかった。
「そういえば、優人がうちに泊まったのって十年前――細かくいえば十一年前か」
愛子と優人が硬直する。
「結が今年十歳ってことは、十一年前に誰かと関係を持ったってことよね?」
言い訳を考えていた脳みそが思考を停止させた――観念した。
「結の父親――優人でしょ」
だとしたら、どうして優人が育児本を持っていたのかも、愛子を好きな気持ちも納得がいく。
二人は黙秘していたが、朝陽はそれを肯定と受け取る。
「どうりで結婚も出来なければ、結の父親が誰なのかも言えないわけだ――犯罪だもんね」
愛子はうつむく。
十一年前といえば、愛子は二十九歳だが、優人は十三歳。社会人と中学生だ。さすがに許されない。
優人が愛子を庇うように立つ。
「俺が悪いんだ。愛子さんは悪くない」
「優人君……」
どんな叱責がくるか分からない。朝陽の次の言葉をここまで怖いと思ったことはない。
「どうでもいいよ、そんなこと」
「え?」
朝陽は責めることも怒ることも呆れることもしなかった。
「世間から見れば犯罪ってだけで、私に関係ないし。私が言わなければ世間は知らないわけだし。それに優人だってもう大人じゃん」
思えば、優人が思い続けていたのも愛子だけ。愛子が再婚しなかったのも、ずっと優人を気にしていたからかもしれない。
リュックを手に取り、帰る準備を進める。
「でもさ、結には関係あるんじゃない?」
支度を終わらせて、リュックを背負いながら立ち上がる。
「ずっと父親が誰か知りたがってたの、私知ってるから。結にはちゃんとけじめつけてよね。ついでに父さんも」
言い終わると、二人を押しのけて靴を履き、「おじゃましました」と言いながら出て行った。
二人は顔を見合わせる。愛子は何も言えなかったが、優人が口を開く。
「今度、ちゃんと話しましょう」
「……そうね。じゃあ、また」
愛子は朝陽を追うようにして出て行った。
優人はその場に座り込む。やっと、肩の荷が下りた気がした。
