「そろそろ受験か」
夕飯を食べながら、久史がぽつりとこぼす。月の受験まであと三日と迫っていた。
「どうなの? 順調?」
それを受けて、愛子が受験勉強の進捗状況を訊いた。
「うん。大丈夫だと思う」
「そう」
月はかなり自信があるようだ。しっかりと力強く頷いた。久史も愛子も安心する。
ただ、朝陽は複雑に思っていた。
「――出て行くの?」
その言葉に三人が朝陽を見る。
「――うん」
いつまでも有明家に世話になってはいられない。大学受験に合格したら寮に入ろうと考えていた。
「そっか」
朝陽はそれだけ言うと、また食事を再開する。それ以降口を開くことはなかった。
久史と愛子は顔を見合わせる。月と朝陽の距離感はいまいち掴めなかったが、どこか周りを寄せつけない雰囲気があった。それが何を表しているのかは分からず。ぎこちなさからなのか、それとも――どちらにせよ、慰めの言葉も励ましの言葉もかけられなかった。
夕飯を食べ終わり、久史は風呂へ、愛子は結を寝かしつけに二階へ向かった。居間には月と朝陽だけが残っていたが会話はなく、テレビの音だけが響く。画面の中では芸人が漫才を披露していた、にも関わらず、二人に笑顔はない。決して面白くないわけではないのだが、笑う気になれなかった。
「何か飲む?」
沈黙にしびれを切らした月が恐る恐る訊いてみる。
「ううん。いらない」
「……そっか」
また沈黙――。
「勉強しなくていいの?」
かと思ったが、意外にも朝陽が話しかけてくれた。内容から察するに、受験を心配してくれているのだろう。
「大丈夫。一通り終わってるから」
「……そう」
朝陽の視線が再びテレビに戻る。
その時、月のスマホが鳴った。表示されていたのは――父さん。
「出ていいよ」
自分を気にして出ないのかと朝陽が気をつかってくれる。
「……うん」
月はスマホを手に取り、通話ボタンを押した。
現在、月の家は今世紀最大に悪化している――父の不倫が発覚したからだ。
それにより、母親が発狂。生まれたばかりの娘――月からすれば妹――の世話も放棄している状態だ。家にいた時は月が面倒を見ていたが、両親の絶えない喧嘩に嫌気がさし、家にいることが苦痛になり、受験を言い訳に有明家に家出してきた。今、両親が家でどんな風に過ごしているのか、妹がどうしているのか、月には分からない。考えたくない、が正しいかもしれない。
通話越しに聞こえてきた父親の声は疲弊しきっていた。そして、聞こえてきた言葉に絶句する。
――母親が男を作って出て行った。
それはそうだろう、と容易に想像出来た。そんな言葉を呟いていたいたことを月は知っている。夫に不倫されたのだから、何かしら仕返ししたいと思うだろう。法的な手続きを取るなら慰謝料を請求するのが一般的だろうが、それでは母親の気が晴れなかったのだろう。何せ妊娠中の不倫だ。不妊治療をした上でやっと授かった女の子。しかも、その女の子がほしいと言ったのは父親だった――母親の憎悪は計り知れない。
月は自業自得だと告げる。父親は机の上に置いてあった離婚届に記入したらしい。母親と離婚して不倫相手と一緒になるのだろうと月は予想した。母親も出て行き、父親も出て行く――じゃあ、妹は?
訊ねると、父親は信じられないことを言った――月に引き取って欲しい、と。
さすがに憤る。あまりにも妹が可哀想だ。ただ、この親に引き取られるのもどうかと考える。だが、月はまだ学生だ。妹を育てていくのは厳しい。大学を諦めて働きながら妹を養うのは? それはあまりにも非現実的だった。それ以上の非情が父親から告げられる。妹のことは任せる、と。もう家を引き払う手続きは済んでいるらしい。今日のうちに荷物をまとめて明日には家を出て行く。だから、明日妹を迎えに来い、と。淡々と――いや、嬉しさを抑え込んでいるように聞こえた。その様子に怒りを超えて呆れも超えた。この感情は何というのだろう。強いて言うなら、無。考えたって仕方がなかった。
通話を終え、大きく息をし、天を仰ぐ。冷静に――冷静に――。
「どうしたの?」
朝陽に問われて、やっとここが有明家だと思い出す。
「どうしたんだろう」
自分でもどう受け止めていいのか分からない。どう説明していいのかも分からない。何もかも分からない。考えたくもない。
とにかく小さな妹のことだけは迎えに行かなければ。
「明日、一旦家に帰ろうと思う」
「何で?」
「妹の面倒を見なきゃいけないから」
「ご両親は?」
「出て行くって」
「出て行く?」
「両親、離婚するんだって。母親はもうすでに出て行って、父親も明日出て行くらしい。だから、その前に妹を引き取りに来いって」
月は淡々と説明しているが違和感が拭えない。あまりにもヘビーだったから。テンションと内容が釣り合っていない。
「え……どうするの? 妹さんと二人で暮らすってこと?」
「そうなるかも」
「大学は?」
「諦めるしかないと思う」
そんな理不尽なことがあるだろうか。月がどれだけ勉強を頑張ってきたのかを考えると、胸が痛くなる。
「うちにくればいいよ」
「え?」
棚からぼたもちというのだろうか。朝陽へ視線を向ける――まるで女神のようだった。
「大学ここから近いんでしょ? うちから通えばいいじゃん。うちだったら、お姉ちゃんもいるし、妹さんつれておいでよ。私も面倒見るから」
「でも――」
朝陽の言葉はありがたいが、月も妹も有明家の人間ではない。
「赤の他人なのにそこまでしてもらうのは申しわけない――」
「もう家族みたいなもんじゃん」
まっすぐに向けられた朝陽の瞳があまりにも純粋で眩しかった。釘づけになる。
「そうよね」
そこへ愛子が戻ってくる。結を寝かしつけられたようだ。
朝陽は慌てて月から視線を逸らし、意味もなく壁を伝って天井を見上げた。月は愛子へ視線を向ける。
「寮に入るより、うちから通えば安上がりだし。朝陽の言う通りにしたら?」
愛子は月の隣に座りながら、朝陽の提案を後押しした。
さっきまでの話を知らないからこんな風に――。
「星ちゃん、結と同い年だっけ?」
「……聞こえてたの?」
「ちょっとだけね」
朝陽に説明していたところを聞かれたらしい。
「二人増えるぐらいどうってことないわよ」
愛子の気づかいは嬉しい。嬉しいが――。
「――考えとく」
「うん。そうして」
愛子はポンポンと月の肩を叩く。
「あー、気持ちよかった」
そこへ風呂から上がった久史が戻ってきた。
「あ、父さん。月大学受かったらここに住むって」
「え」
そんなことは言っていない。
だが、久史は愛子の言葉を真に受け、嬉しそうに破顔した。
「そうか! それはいいな! いつまでもいてくれていいから」
「いや――」
「でしょ~。やっぱり月はうちに必要よね」
「でも――」
「父さん男一人で寂しいって言ってたもんね」
「あの――」
「そうそう。四人中男一人って寂しくて寂しくて……」
全く聞く耳を持ってもらえない。
「もう一人女の子が増えたって平気よね~」
「女の子?」
「月には星ちゃんっていう妹がいるのよ」
「そうなのか! ――え? 何? 一緒に住むの?」
喜んでいたが、久史には全貌が見えていなかった。
