部屋ではアメイジンググレイスが流れていた。朝陽はずっと天井を見上げながらベッドに横になっている。
 愛子からもらったカットフルーツを食べられるだけ食べた。その後終電があるからと優人が帰る。愛子も優人もどこか嬉しそうだったことから二人は意外とうまくいきそうなのかもしれないと思った。でも、素直に祝福は出来ない気がした。そんな自分に嫌気がさす。
 時計を見る。深夜一時。二時間ほど吐き気はない。今なら、と上体を起こし、部屋を出て階段を下りて行く。向かったのは風呂場だった。最近はろくに入れていなかった。体の匂いを嗅いでみるが自分では不快だとは思わない。少し髪の毛はベタついているように見える。さすがに気持ち悪かった。
 せっかくなので湯を張ることにした。たまにはゆっくり入ったって罰は当たらないだろう。居間に移動してスマホで適当に動画を流しながら時間を潰す。最近はもっぱら教育チャンネルを見ていた。子どもが生まれた時にどう接していいのか分からないと何も出来ない。産婦人科の先生が今後体調を見て教えてくれるらしいが、自分でも調べておきたいと思った。三十分ほどそうしていたら音楽が鳴り、湯が張れたことを知らせてくれる。動画を見るのをやめ、風呂場に移動した。
 体と髪を洗ってから湯船に浸かる。ホッと息が漏れた。自分のお腹を見る。ここに間違いなく子どもがいる。そう思ったら、少し強くなれたような気がした。
 十分ほど浸かってから上がると難関にぶつかった――朝陽は髪を乾かすのが嫌い。
 だが、放置するわけにもいかない。今まではどうしていたのかと考える。思い出すとうつむいた。先日まで月が乾かしてくれていた――妊娠が発覚するまでは。
 月に頼むくらいなら自分で乾かす。そもそも月はもう寝ているだろうし、今のギクシャクした関係で乾かしてもらうのはなんか違うとも思う。
 一つため息をつき、ドライヤーを手に取る。大きな音を立てながら鏡の中の仏頂面とにらめっこする――そこに、人影が映った。

「え?」

 ドライヤーが自分の手をすり抜けていく。振り返ると、月が立っていた。

「前向いて」
「――うん」

 言われるまま前を向くと月が髪を乾かしてくれる。あんなに突き放したのに、何で?
 会話もなく、ただ淡々と時間がすぎた。
 以前はもっと楽しかったのに――現状を作ったのは自分だが。
 しばらくするとドライヤーの音がやむ。

「乾いたよ」
「……ありがとう」

 月が後ろからドライヤーを置くと、そのまま抱きしめられ、肩が跳ねた。

「同じ匂いがする」

 朝陽の髪に顔を埋めた。

「……同じシャンプー使ってるんだから、そうなるでしょ」

 あの日もこんな風に抱きしめられて、それから――。
 月の手が髪に触れる。髪を耳にかけられると、その耳にキスをされた。

「出来ないよ、妊娠してるんだから」

 あの日とは違う。あの日と同じことは出来ない――したくても、出来ない。

「分かってる」

 耳元で囁かれるように言われると、思考が麻痺してしまいそうだった。このままではいけない。あの日のようにまた求めてしまうかもしれない。月の腕から逃れて、距離を取る。

「髪、乾かしてくれてありがとう――おやすみ」

 目を合わせることなく、階段を駆け上がった。急いで自室に入り、扉を閉める。その場に座り込み、大きく肩で息をした。
 まだ心臓が落ち着かない。

『真剣に考えてるんだ』

 何故今その言葉が浮かんだのか――。

「私だって……」

 ――月が好き。

 朝陽だって同じ気持ちだ。でも、同時に過去に月が言っていた言葉も思い出していた。
 あの言葉さえなければ、こんなに悩まなくて済んだのに――。
 そう思っても、月の言葉は彼の人生から生まれてしまった本心。朝陽が払拭出来るようなことではなかった。
 どうしたらいいのか分からない。感情がぐちゃぐちゃで、しばらく涙が止まらなかった。