「何を話してたんだろうね?」
「何だろう……」
「朝陽ちゃん怒ってたね?」
「怒ってた……」

 自分達の部屋で宿題をしていた結と星は、壁に耳を押し当てながら朝陽と月の会話を聞いていた。ほとんど内容は分からなかったが、朝陽が声を荒げたところだけはしっかり聞こえた。結は興味津々だが、星は少し怖がっている。朝陽が怒っているところを見たことがないからだろう。

「ちょっと朝陽ちゃんのところに行ってみようかな」
「え……でも、怒ってたよ?」
「大丈夫だよ、ちょっとくらい。星は月君の所に行って」
「何で?」
「何話してたか訊いてきてほしいの」
「訊いてどうするの?」
「二人がけんかしてるなら仲直りさせたいでしょ?」

 結に言われてハッとする。そういうことなら話は別だ。力強く頷いた。



 ノックの音がして扉が開く。

「いい加減にしてよ! ――あ」

 月が入ってきたのかと思い、怒鳴りながら扉の方を向くと立っていたのは結だった。

「ごめん! 結に怒ったんじゃないから」
「うん。大丈夫」

 結は驚いてはいたが気にはならなかったようで、部屋に入ってきた。

「くだものいっぱいだね!」
「あ、うん」
「ママが買ってきたの?」
「そう」
「私も一個もらい!」

 結は無邪気に一パックを取って、朝陽の隣に座り、蓋を開けた。

「この後夕飯あるでしょ?」
「いいのいいの」

 そう言いながらりんごを一つ口に入れる。

「おいしいね!」
「そうだね」

 結の笑顔を見ていると、気持ちが柔らかくなる。朝陽もまた食べ始める。

「ねぇ、さっき月君と何話してたの?」
「何で?」
「だって怒ってたでしょ?」
「聞こえてた?」
「丸聞こえだった」
「マジ?」
「まじまじ!」

 隣の部屋に筒抜けになるほど聞こえていたのかと思うとさすがに恥ずかしい。

「けんかしてるの?」
「そういうわけじゃ……」
「じゃあ何で怒ってたの?」
「いろいろあるんだよ」
「いろいろって?」
「いろいろはいろいろ」

 結がむすっとする。

「それって大人のじじょーってやつ?」
「まぁ、そうかも」
「大人って何でそういうこと言うの? 子どもだからって仲間外れにしないでよ」
「仲間外れはちょっと違うっていうか……」
「どうちがうの?」
「まぁ……その……違うもんは違うの」
「そんなのなっとくいかない」

 どう答えていいのか考えあぐねる。こういう時は窓の外へ視線を投げていた。空を見ていると心が落ち着くから。まだ少し明るい空に、白い月が浮かんでいる。

「月」

 朝陽の視線を辿って窓の外を見ると、確かに月が見えた。

「月がきれいですね」
「え?」

 思わず結を見下ろした。聞き覚えがあったから。

「夏目漱石がアイラブユーをそう訳したんだって。知ってる?」
「……知らない」
「いかにも文ごうらしい訳し方だよね」
「はぁ……そうなんだ?」
「うん」

 結は久史の影響で本を読むのが好き。本人の達観した性格に少なからず影響しているだろう。

「何でそうなるの?」
「さあ?」
「それの答えって何になるの?」
「さあ?」
「そんなの納得いかない」

 今度は朝陽の番だった。結が朝陽を見上げ、朝陽が結を見下ろす。二人同時に吹き出した。

「たぶん、だれもてきかくな回答は出来ないよ」
「何で?」
「夏目漱石じゃないから」
「……なるほど」

 夏目漱石が考えたアイラブユーの返答は夏目漱石にしか分からないということらしい。結らしい考え方だ。

「同じアイラブユーなら、同じように月が綺麗ですねって返すのは?」
「そんなのつまんないじゃん」
「すみません」

 いかにも小学生らしく、的確な返答だと思った。
 いったん食べるのを中断して窓際に移動し、二人でしばらく白い月を眺めながら話していた。



 ノックの音がして返事をすると、星が扉を開けた。

「お兄ちゃん」
「どうした?」

 有明家で唯一血が繋がった兄弟である星は、月にとって特別な存在だった。声音も優しくなる。

「朝陽ちゃんとけんかしたの?」
「え?」
「さっき怒られてたでしょ?」

 心配して様子を見にきてくれたのかと思うと、心が穏やかになる。

「朝陽はちょっと不安定なだけだよ。気にしないで」
「けんかしてたんじゃないの?」
「違うよ」
「何だ~、良かった!」

 安心した笑顔を見せてくれると、月も嬉しくなる。

「結ちゃんと二人で心配してたんだ」
「そっか」

 星はベッドに座っている月の隣に座る。

「朝陽ちゃん大丈夫かなぁ。ご飯も食べられないんでしょ? 赤ちゃんがおなかにいるのって大変なんだね」
「うん」
「でも、早く会いたいな!」
「そうだね」
「赤ちゃんが生まれたらいっぱいお世話しようねって結ちゃんと話してるんだよ!」

 そんなことまで二人で考えているのかと思うと微笑ましかった。女の子だと母性本能が働くのだろうか。

「でも、パパが誰だか分からないんでしょ? お兄ちゃんはだれか聞いた? 赤ちゃんのパパ」
「――いや、聞いてない」
「そっかぁ。早くパパが見つかるといいね!」

 無邪気に笑う妹の頭を優しく撫でる。

「そうだといいけどね」

 朝陽はどうして頑なに自分との関係を拒絶するのだろう。
 妊娠が発覚するまでは仲がよかった。少なからず好意もあったはずだ。それが一変した。どれだけ考えても月には朝陽の考えが分からない。それを寂しく思った。