優人は朝陽の部屋を出て、階段を下りる。今の朝陽には一人の時間だって大事だろうと思った。

「あれ?」
「え?」

 階段下から顔を覗かせたのは、愛子だった。突然のことに思考が停止する。そうだ、ここは愛子の家でもあったと思い出した。
 変わらない愛子の美しさに心を奪われる。しばらく見惚れていた。

「えっと……優人君?」

 愛子に話しかけられて我に返る。

「あ、はい。お久しぶりです」
「久しぶり!」

 意外にも愛子は自分を憶えていて、その上嬉しそうに微笑んでくれる。それが照れくさかった。

「元気?」
「はい、元気です。愛子さんは?」
「うん。変わらず」
「よかったです」

 どこかぎこちなくて盛り上がらない。久しぶりの再会だからなのか、心の内を知られまいとしているからなのか。

「今日はどうしたの?」
「えっと――朝陽が、心配で」

 本当は「あなたに会いにきた」と言いたかったのに。

「そう……ねぇ」

 愛子は一度考えるようにうつむいてから顔を上げた。

「はい?」
「優人君は知ってる?」
「何を、でしょうか?」
「朝陽のお腹の子の父親」

 愛子にも言っていないのかと察した。

「明言はされてません」
「そう……え? 待って。それって目星はついてるってこと?」

 朝陽は誰だか言っていないが、優人の中では誰なのか分かっているような言い方に聞こえた。

「俺からは言いません。朝陽が話すって決めた時に聞いてあげてください」

 姉の自分には話してくれないのに、優人には誰だか分かるくらいに話している。それだけ信頼しているということだろうか。立場がなかった。

「優人君は昔から朝陽と仲がいいもんね。よかった。朝陽に信頼出来る人がいてくれて」

 それは、心から妹を思う姉の本心だったが、どこか愁いを帯びていた。

「愛子さんも朝陽に必要ですよ」
「え?」
「最近は愛子さんがくだものをたくさん買ってくるから食べるのが大変って言ってました」
「あ、そうね……買いすぎかも」

 そう言いながら手元の買いもの袋を見せる。大量のカットフルーツが入っていた。
 優人はそれを見て吹き出す。

「変わりませんね。そういうところ」
「そう? あの頃もこんなにくだもの買ってた?」
「くだものやないですけど。俺が好きだって言ったたこ焼きを大量に」
「ああ! 冷凍だったけど」

 優人が泊まった日のことを思い出す。
 当時優人がハマっていたバンドマンの公演が武道館であった。そのバンドが武道館でライブすることを目標にしていたため、参戦したいと強く思っていたところ運よくチケットが手に入り、関西から上京した。東京にはめったにこれないからと観光も兼ねていたため、朝陽に頼み込んで久史を説得してもらい、有明家で一泊したのだった。その際に愛子がかなり世話を焼いた。

「次の日たこ焼き器買って自分で作り始めたやないですか」
「そうだったね」
「でも、作れなくて、俺が教えてあげました」
「そうそう」

 思い出話に花が咲いて二人で笑う。

「もう十年前?」
「それくらいですね」
「懐かしいわね」
「本当に」

 十年経っても変わらない愛子の笑顔に安心感を覚える。

「感謝してます」
「え?」
「愛子さんがたくさん世話を焼いてくれたこと。救われたんで」

 両親からはほとんど関心を持たれず、寂しい思いをしていた優人にとって愛子の世話焼きはとても嬉しかった。

「私、おせっかいだから」
「そこが愛子さんの魅力です」

 何だか照れくさいが、表情は二人とも穏やかだった。

「朝陽にこれ、届けるから」

 買いもの袋を見せながら言い、横を通りすぎて階段を上がって行く。

「あ、あの!」

 慌てて愛子を引き止める。

「何?」

 生唾を飲み込む音が聞こえる。だが、ここで引き下がるわけにはいかない。せっかく再会出来たのだから。

「今度、二人でご飯とか、行きませんか?」
「え?」
「あ、いや! 結――ちゃんも、一緒に」

 愛子は目を見開く。
 そこで人影に気づく。その視線を辿り、優人もその人物を認めた。そうだった、ここは朝陽と愛子だけの家ではない。彼の家でもあった。

「今のどういうこと?」

 そこに立っていたのは、月だった。