「朝陽。ママはね、朝陽が大好きなの」

 物音がして目を覚ますと、母親である美空が出かけようとしていた。不思議に思って声をかけると美空は異常に肩を震わせ、恐る恐る振り向く。こんな顔は今まで見たことがない。まるで幽霊でも目にしたかのような表情。だが、朝陽だと気づくとホッと胸を撫で下ろした。そして、目線を合わせながらそう言った。
 朝陽は頷く。美空はそんな朝陽を抱きしめた。

「少しだけ時間がほしいの。一人になって考えたいの。朝陽を嫌いになったんじゃないからね」

 そう言い残して、美空は出て行った――。



 目を開けるといつもの天井が目に入った。夢を見ていたらしい。一度大きく溜息を吐くと、徐々に現実に戻ってくる。
 美空が有明家を出て行ったのは朝陽が七歳の時。小学生になったばかりの頃、クラスでも馴染めず、学校が嫌いだった。嬉しかったことはテストの点数を美空に褒められたこと。それからは褒められたいがために勉強を頑張った。だが、そんな時間すらも奪われた――よりによって、大好きな母親に。
 久史に何度も訊いた。母親はいつ帰ってくるのかと。だが、明確な答えは得られなかった。その内、諦めがついたのか訊くことをやめた。あれから十七年の時が流れたが、美空が返ってくる気配はない。
 天井を見上げていたら、いきなり気分が悪くなった。ベッドの足元にあるゴミ箱を手に取ると、そこに顔を突っ込む。何度かえずいてから顔を上げ、ローテーブルの上のティッシュを手に取り、口元を拭う。床にへたり込むと、大きく息を吐きながらお腹をさすった。
 優人の言葉を思い出す。

「大丈夫、大丈夫……一緒に頑張ろう」

 お腹の中にいる赤ちゃんにも外の声は聞こえているのだと。だとしたら、マイナスなことよりもプラスなことを伝えたい。
 だが、内心不安だった。

 自分は立派な母親になれるのか――。

 少し調べてみたが産後うつなんてものがあるらしい。それによって自分の子どもに愛情を感じない人もいるとか。

 ――出て行く美空の背中を思い出す。

 あんなに悲しい思いを自分の子どもにはさせたくない――自分が原因で、なんて尚更だ。

「大丈夫、大丈夫……」

 子どもを――自分も安心させるように、何度もその言葉を繰り返した。