ディアナが馬車から降りると、使用人達が出迎えてくれる。

(いつもならこの中に、エレンもいたのにね……)

 つい習慣で、『おかえりなさい、お嬢様!』と笑みを浮かべるエレンの姿を探してしまい、ディアナは小さく息を吐いた。

 出迎えた使用人達は皆、歓迎してくれているように見えるが、幻覚の蝶が出ていないので、心の中では何を考えているのか分からない。

(特になんの感情もなく、仕事として私を出迎えてくれているってことかしら?)

 そう思うと少し寂しい気もするが、エレンのように嫌っていないだけマシだと自分に言い聞かせる。

 ディアナがエントランスホールに入ると、ちょうど母が階段から降りてきたところだった。

「おかえり、ディアナ。体はもう大丈夫なの?」
「はい、お母様。ご心配おかけしました」

 ライトブラウンの髪を持つディアナとは違い、母の髪は明るい金髪だ。

 小柄でどこか儚げな雰囲気を持つ母は、若いころとても人気があり、たくさんの男性から求婚されたらしい。残念ながら、父親似のディアナは、母より高身長で、儚げという言葉は似合わない。

(私がお母様似だったら、ロバート様ともうまくいっていたかもしれないわね)

 ディアナを見つめる母の顔は青く、周囲には灰色の蝶が飛んでいた。

 ――不安だわ。

 母に安心してもらえるようにディアナは微笑む。

「本当に、もう大丈夫ですよ」
「そう? ディアナ、ロバート様からお手紙が届いているわよ」
「ロバート様から?」

 母の指示を受けて、メイドが手紙を持ってきた。

(私から送ろうと思っていたから、ちょうどよかったわ)

 メイドから手紙を受け取ったディアナは、母の横を通り過ぎる。その際に、母から「できるだけ早く、ロバート様にお返事をするのよ」と声をかけられた。

「はい」

 母に言われなくても、これまでもロバートから来た手紙には、すぐに返事をするようにしていた。婚約者として、そうすることが誠実な対応だと思っていたから。

(これからは、婚約解消をするために協力しないとね)

 自室に戻ったディアナは、すぐに手紙の封を切った。。

 そこには、「どうして、ケガのことをすぐに言わなかった? どうして倒れるまで我慢するんだ! 君のそういうところがダメなんだ!」とディアナを責める言葉が並んでいる。

 最後には「そんなに、私に恥をかかせるのが楽しいのか!?」と殴り書きされていた。

 ディアナを心配する言葉なんて一つもない。

 これまでならロバートの言葉に傷つき、「どうしたら許してもらえるの?」などと必死に考えていたが、今となっては、ひどい手紙の内容にただただ苦笑してしまう。

(ロバート様は、相変わらず私のことが大嫌いなようで安心したわ)

 机に座るとディアナは、羽ペンを手に取った。

(なんて書こうかしら?)

 悩んだのはほんの少しの間。もうロバートの機嫌を取る必要がないので、思いついたことをそのまま手紙にしたためる。

 ――そんなに私のことが気に入らないのなら、すぐにでも婚約解消しましょう。私達は、同じ気持ちなので、協力できるはずです。

 便箋を封筒に入れて、ディアナは「これでよし」と微笑む。

 メイドを呼ぶためにベルを鳴らすと、赤茶色の髪を肩辺りで切りそろえた若いメイドが扉からひょこっと顔を出した。

「あっあの、お嬢様付きのエレンが見当たらないのですが……」
「ああ、そうだったわね」

 専属メイドのエレンは、もういない。

「エレンは、解雇したの」
「え!?」

 メイドから白い蝶が飛び出し『驚いた』と囁く。

「か、解雇ですか? 急にどうして……?」

 ディアナは、静かにメイドを見つめた。

「その理由は、あなたも知っているんじゃないの?」

 メイドは「あっ」と小さくつぶやく。

「あなたのその様子なら、エレンはここでも私を悪く言っていたのね」

 黙ってうつむくメイドを見て、ディアナは不安になった。

「もしかして、あなたも私のことをそう思っているの? 私、皆に嫌われているのかしら?」
「まさかっ!? そんなわけありません! お嬢様を悪く言っていたのはエレンだけです!」
「でも、だれもエレンの陰口のことを、私に教えてくれなかったわ」
「それは、エレンがお嬢様のお気に入りだったから……」
「そうね……」

 エレンの黒い蝶の声を聞くまでは、だれかがディアナに「エレンは陰でお嬢様の悪口を言っています!」と教えてくれても絶対に信じなかっただろう、

 それくらい、ディアナはエレンのことを信じていたし、大好きだった。

「あなたを疑ってしまってごめんなさい」
「い、いえ!」

 メイドの白い蝶からは『良かった』と聞こえてくる。

(この子には、嫌われていないみたいね)

 ディアナは、ホッと胸をなで下ろしながら「これからは、あなたがエレンの代わりをしてくれないかしら?」と提案する。

「え? それって私が、お嬢様の専属メイドになるということですか?」
「嫌かしら?」
「とんでもないです!」

 白い蝶は、ヒラヒラと舞いながら『嬉しい!』と喜んでいる。

「あなたのお名前は?」
「アンです!」
「アンね。お父様には私から伝えておくわ。これからよろしくね」
「はい! 一生懸命、お嬢様にお仕えいたします!」

 アンがあまりに嬉しそうなので、つられてディアナの頬も緩む。すると、ふと脳裏にライオネルの言葉が浮かんだ。

『あなたは自分に不誠実な者を遠ざけたのだろう? ならば、よくやった』

 そう言ってくれたライオネルなら、今の状況を見て『自分に仕えることを喜ぶ者を見つけられたのだな。よくやった』と言ってくれそうだ。

(幻覚が見えるようになって、嫌なこともあったけど、それよりも良いことのほうが多いわね。この不思議な能力は、もしかしたらこれまで頑張ってきた私への、神様からのご褒美なのかしれない)

 ディアナは、先ほど書いた手紙をアンに手渡す。

「この手紙を私の婚約者ロバート様に届けてほしいの。急ぎでね」
「分かりました!」

 元気いっぱいなアンを見送ってから、ディアナはソファーに座って一息ついた。

(ロバート様との婚約について、一度、お父様からお話を聞きたいわ。専属メイド変更の件もあるし、それに、ライオネル殿下へのお礼に何を贈ったらいいのか相談もしないと……)

 ディアナの父であるデバリー伯爵は忙しく、あまり家に帰ってこない。

(とにかく、今できることはすべてしたわね)

 頭の傷を癒やすためにも、今日は静かに自室で過ごすことにした。

 昼過ぎまで一人で読書を楽しんでいると、血相を変えた母がディアナの部屋に飛び込んでくる。

「ディアナ、大変よ! ロバート様がいらっしゃったわ」
「ロバート様が? 約束もしていないのに、どうして急に?」
「そんなことより、客室にお通ししているから早く行きなさい」
「行きなさいと言われても……」

 ディアナは、自分自身を見下ろした。

 服は飾り気のないワンピースを着ているし、化粧もしておらず、人前に出られるような姿ではない。

 それなのに、母は「急いで」とディアナの腕を引いた。

「ちょっと待ってください。こんな格好ではロバート様に失礼……」

 そう言いかけて、途中でハッと気がつく。

(そうだわ。もうロバート様に何を思われてもいいんだった)

 それにこれまで、どれだけ着飾っても文句を言われていたので、どういう服が正解なのか分からない。

(だったら、このままでもいいわね)

 気持ちを切り替えたディアナは「すぐに向かいます」と母に微笑みかける。

 ちょうどメイドがロバート様にお茶を出しているようで、客室の扉は開かれていた。

 ディアナがそっと中を覗くと、いつも以上に不機嫌そうなロバートがソファーに座っている。その手には今朝、ディアナが出した手紙が握りしめられていた。

(ああ、なるほど。私の手紙を読んで、婚約解消ができると喜んで来たのね)

 メイドが部屋から出ると、入れ替わりにディアナは客室に入った。

 そのとたんに、ロバートが立ち上がり「どういうつもりだ、ディアナ!」と怒鳴ったが、ディアナはニコリと微笑む。

「いらっしゃいませ、ロバート様」