身支度を整えたディアナは、手伝ってくれたカーラを振り返る。

「ありがとうございました。後日、改めてライオネル殿下に『お礼に伺います』とお伝えください」
「はい! お嬢様のお越しを騎士団一同、心待ちにしております! ぜひ、馬車までお見送りさせてください!」

 なぜか張り切っているカーラは、大きなバスケットを持ってくれた。カーラの白い蝶が『嬉しい』と囁いているので、頼っても問題なさそうだ。

「お言葉に甘えます」
「はい!」

 早朝の王宮内を、ディアナはカーラと二人で歩いた。

 昨晩、華やかな夜会が開かれていたとは思えないほど、辺りは静まり返っている。その静けさを破るように、大きな足音を立てながらディアナの専属メイド、エレンが駆け寄ってきた。

「お嬢様ぁ」

 エレンは、いつものように無邪気を装ってニコニコしている。

(あなたは、私のことが大嫌いなのに……)

 ディアナがどういう態度を取ればいいのか悩んでいる間に、エレンは「もう、お嬢様ってば!」となれなれしくディアナの腕をつかんだ。

「離して」
「え?」

 驚いているエレンの手を、ディアナは振り払う。

「お、お嬢様?」
「そう、私はこれでも伯爵家のお嬢様よ」

 そういうディアナの声は、怒りと緊張で震えていた。

「もーう、お嬢様ったら、どうしたんですかぁ?」

 そう明るく言いながらも、エレンの頬はピクピクと痙攣(けいれん)している。

(私に反抗されて、腹が立っているのね)

 こんな風に見下される関係を、これ以上続ける気はない。

「エレン、あなたが陰で私のことをなんて言っていたか知っているわ」

 サッとエレンの顔から血の気が引いた。

「たしか『グズのくせに偉そうに! 私のほうが可愛いわよ!』だったかしら? つづきは何?」
「あ……」

 エレンは、キッとカーラを睨みつけた。

「こ、この女ですね!? 何を吹き込まれたんですか!? 私はお嬢様のことをこんなに大切に思っているのに。うっ、うう」

 泣きまねを始めたエレンの目から涙は流れていない。

(今まで、こんな幼稚な手にだまされていた自分が恥ずかしいわ)

「お、お嬢様ぁ」

 近づいてきたエレンをディアナは避けた。

「エレン、騎士様に謝って」
「へ?」
「騎士様に無礼な発言をしたことを謝りなさいと言っているの」

 エレンは悔しそうに歯を噛みしめたあと、「すみませんでした」と頭を少しだけ下げる。

「騎士様、私のメイドが申し訳ありませんでした」
「お気になさらず」

 その間、エレンは反省するどころか、不服そうな顔をしていた。そんなエレンを、ディアナは静かに見つめる。

「エレン、あなたを解雇します」
「……え?」

 ポカンとエレンが口を開けた。

「あなたは私の専属メイドだからお父様の許可を得ず、私の権限で辞めさせることができるのよ」
「そ、そんなっ、お嬢様!」

 ディアナにすがりつこうとしたエレンを、カーラが制する。

「下がれ。お前の言動は目に余る。我が主(あるじ)、ライオネル殿下の大っっ切なご友人であるディアナ様に無礼は許さん!」

 なぜか『大切な』の部分にやけに力が入っているような気がしたが、今は聞けるような雰囲気ではない。

「主がお優しいと、つけ上がる愚か者がいる! それがお前だ。恥を知れ!」

 エレンは顔を真っ赤にして、カーラではなく今度はディアナを睨みつけた。

「はっ! 偉そうに、解雇だって!? もうこの脳内お花畑女の世話をしなくていいなんて、せいせいするわ! 何が伯爵家よ! 私だって……。私だって、本当なら貴族のお嬢様なのに……」

 うつむいたエレンは、元は男爵家の四女だった。しかし、父である男爵が事業に失敗し多額の借金を作り、一人で逃げてしまった。

 困ったエレンの母は、男爵位を裕福な親戚に譲り、自分達が平民になることで資金援助してもらった。しかし、それでも借金が残ってしまった。

 借金返済のために娼館に売られそうになっていた幼いエレンを哀れに思い、メイドとして引き取ってきたのがディアナの父だ。

 ディアナの父は、逃亡した男爵に多少の投資をしていて、付き合いがあったらしい。そうして、知り合ったディアナとエレンは、これまでは仲良く過ごしてきたつもりだった。

 しかし、目の前のエレンは涙を流しながら、「あんただって、父親がいなくなったらただの平民になるくせに!」と叫んだ。

(たしかにエレンの言うとおり、もし私の父が借金を作って失踪すれば、今度は私がエレンのようになるのかもしれない。でも、だからといって、どうして私がここまで嫌われないといけないの?)

 エレンの周りを飛ぶ黒い蝶からは、『大嫌い! あんたなんか大嫌い!』と聞こえてくる。

 ディアナの脳裏には、これまでのエレンとの楽しい思い出がよみがえってきた。そのせいで、怒りより悲しみに全身が包まれていく。

「エレン……、私、あなたのことが大好きだったわ。ずっと仲のいい友達のように思っていたの」

 毒気を抜かれたような顔をしたエレンに、ディアナは涙を浮かべながら微笑みかける。

「でも今、大嫌いになった。あなたも私のことがずっと大嫌いだったのでしょう? 良かった、これで私達、ようやく分かり合えたわね」

 ディアナの頬を伝い、涙が流れていく。エレンはうつむき、無言でこの場から走り去った。

 あふれる涙を、ディアナは止めることができない。

(もっと早く幻覚の蝶が見えていたら、エレンとも仲良くできたの?)

 そんなことを思っていると、カーラが「あ、殿下」とつぶやいた。

 ディアナが慌てて振り返ると、そこにはライオネル殿下が立っていた。