夜が明けると医務室に医師が戻ってきた。医師の後ろには、女性騎士カーラが姿勢正しく立っている。

医師は、ベッドに腰を下ろしているディアナに「どこか痛むところはありませんか?」と尋ねた。

「ありません」

 頭の痛みも、目もチカチカもきれいに消えている。しかし、カーラの周りには淡く光る蝶が飛んでいた。

(幻覚は、まだ見えているのね)

 カーラの蝶からは『心配だ』と聞こえてくる。

(これって、本当になんなのかしら? 心の声じゃないとしたら、相手が強く思っていることだけが聞こえるとか?)

しかし、医師の周りに蝶はいない。

(お医者様は、ケガ人なんて毎日見ているだろうから、これくらいのケガで何か思うことはないのだとしたら、辻褄が合うけど……)

 ディアナの頭の傷を見ながら医師は「出血は止まっていますね。腫れも少しずつ引いていくでしょう。腫れが完全に引くまでは安静にしてください」と言った。

「幻覚は、まだ見えますか?」
「……はい」
「ひどくなるようでしたら再診を。この薬を毎日傷口にぬってくださいね。では、帰っていただいて結構ですよ」

 医師がベッドから離れると、カーラがディアナに近づいてきた。

「お嬢様の家の者がいらしています。エレンと名乗っておりますが、お通ししてよろしいでしょうか?」

 エレンは、ディアナの専属メイドだ。

「入ってもらってください」

歳が近いこともあり、ディアナはエレンと仲がいい。

(私とエレンは、髪の色が同じライトブラウンなのよね)

子どもの頃は、着ているものを交換し、入れ替わりごっこをして遊んだことがある。背格好が似ているため、後ろ姿だと使用人たちは、見分けることができなかった。

 カーラがエレンを医務室に招き入れると、エレンは勢いよくディアナに駆け寄る。

「ディアナお嬢様ぁ! いったい何があったんですか!?」

 エレンは、髪と同じ色のライトブラウンの瞳を、ウルウルさせていた。

「頭を打ってしまって……」
「大変だったんですね。そうそう、着替えをお持ちしましたよ!」

 エレンは、大きなバスケットをディアナに見せた。

「ありがとう。エレン」

 そのとき、フッとエレンの胸辺りから、真っ黒な蝶が出てきた。

「あれ?」
「お嬢様? どうされましたか?」

 エレンにも蝶は見えていないようで、不思議そうに首をかしげている。

(今までの蝶は白かったのに、エレンの蝶は黒いのね)

 ディアナはそう思ったとたん、黒い蝶から声が聞こえた。

 ――嫌い。

「えっ?」

 黒い蝶から聞こえてきた声に、ディアナは耳を疑う。

 ――大嫌い。

 目の前のエレンは、ディアナを気遣い「もう、心配したんですよぉ」と言いながら涙を拭く仕草をしている。

「早く着替えてくださいね。さっさと帰りましょう」

 エレンがこちらに伸ばした腕を避けるように、ディアナは身を引いた。

「お嬢様?」

 黒い蝶が『嫌いだ』と繰り返している。

(どういうこと? この幻覚は、相手が強く思っていることが分かるんじゃなかったの?)

 混乱してしまい、考えがまとまらない。

 エレンが「もう、着替えてくださいよ!」と言いながら、ディアナに触れようとした。

「ちょっと待って」

 ディアナが手で制したその瞬間、ほんの一瞬だけ、エレンの眉間にシワが寄った。

それは、気をつけていないと見逃してしまうほどのわずかな変化だったが、その変化と同時に蝶の声も聞こえる。

 ――大嫌い。

 ディアナは、信じられない気持ちでエレンの顔を見つめた。

「……エレン。あなたは、医務室の外で待っていて」
「え? 着替えないんですか?」
「いいから、待っていて」
「はーい」

 その返事は、聞き方によっては不服そうでもある。

 カーラを見ると、その周りには白い蝶がフワフワと飛んでいるだけで、何も話さない。

(この幻覚が、本当に相手の強い気持ちを表しているのか確かめないと)

 気のせいで済ませてしまえないほどには、エレンの言動に違和感がある。

(もし、幻覚で聞こえた『大嫌い』が本当なら、エレンは私の前とそれ以外で態度が違うのかもしれない)

 ディアナは、姿勢よく佇んでいるカーラを見上げた。

「あの、カーラ様にお願いしたいことがあるのですが……」
「なんでもお申し付けください」

 ディアナはカーラに、密かにエレンのあとをつけるように頼んだ。

 理由も聞かずにカーラは「分かりました」と引き受けてくれる。

 医務室で一人待っている間にディアナは、どんどんと冷静になっていった。

(エレンがそんなことを思うはずがないわよね。幻覚はやっぱりただの幻覚よね。こんなことで付き合いの長いエレンを疑うなんて……)

 そう思っていたが、医務室に戻ってきたカーラの顔は険しい。

「お嬢様……。お付きのメイドは代えたほうがよろしいかと」
「エレンは、私について何か言っていましたか?」

 口ごもるカーラに、ディアナは「どんな内容でもかまいません。教えてください」と、お願いする。

「その……。メイドは、お嬢様の悪口を言っておりました。『グズのくせに偉そうに! 私のほうが可愛いわよ!』これ以上は私の口からは……」

 カーラの周りを飛ぶ蝶が『ひどい!』と怒っている。

「そうですか。ありがとうございます」

 まさかと思う気持ちと共に、この蝶はやはり相手の強い気持ちを教えてくれているのだとディアナは確信が持てた。

(蝶がいなかったら、私はエレンに嫌われていることに一生気がつかなかったでしょうね)

 しかし、嫌われている可能性を考えながらエレンを観察すると、確かにそう取れる言動があった。

「着替えます。少しだけ手伝っていただけますか?」
「もちろんです」

 エレンが持ってきた大きなバスケットから、ディアナはワンピースを取りだした。ピンク色でリボンがたくさんついたワンピースをエレンは「可愛いです! お嬢様に良くお似合いです!」といつも褒めてくれる。

 ワンピースを着ながら、ディアナはカーラに尋ねた。

「このワンピース、どう思いますか?」
「あ、えっと……」

 カーラの蝶は『困った』とつぶやく。

「私は王都の流行りは分かりません。しかし、これだけリボンがついていると、少し子どもっぽいのでは? お嬢様は、とても知的な雰囲気ですので、もっと大人っぽい服のほうが似合うような気がします」
「……そう、ですか」

 エレンとの楽しかった思い出が、音をたてて崩れていく。

(私のことが大嫌いなエレンが『お似合いですよ』と薦めてくれた服は、本当に私に似合うものだったのかしら?)

 今までの全てのことに悪意が含まれていたのではないかと疑ってしまう。

(私を嫌っているのはエレンだけ? それとも、私はずっとメイド達に陰で笑われていたの?)

 ディアナの目尻に涙が浮かぶと、カーラが息を呑んだ。

「お気を悪くされましたか!?」
「いえ、正直に言ってくださり、ありがとうございます」

「申し訳ありません! 我が主(あるじ)、ライオネル殿下の命(めい)により、我ら騎士は、正直にまっすぐ悔いなく生きることを課せられていまして」

「ライオネル殿下の命令で、ですか?」
「はい」
「殿下は、どうして、そんなご命令を?」

 カーラの浮かべる笑みは優しい。

「戦場に出る我らは、明日、死ぬかもしれないからです」

 カーラの蝶は『誇(ほこ)らしい』とささやく。

「死ぬ間際、後悔しないように日々懸命に生きる。それがライオネル殿下率いる騎士団の掲げる精神です」

 王都から戦場は遠い。安全な場所で暮らしてきたディアナは、死について考えたことすらなかった。

(死を覚悟しながらまっすぐに生きているからこそ、ライオネル殿下もカーラ様もこんなに優しいのかもしれないわね)

 彼らの生き方を、とても眩しく感じる。

(私も、そんな風に生きられるかしら?)

 ディアナは両手を強く握りしめると、エレンと向き合う覚悟を決めた。