「ディアナとの婚約を解消した、ですか?」

 目の前にいる父コールマン侯爵を、ロバートは驚きの表情で見つめた。

 いつもは不機嫌そうに眉間にシワを寄せているのに、今日はよほど機嫌がいいのか口元に笑みが浮かんでいる。

「ああ、そうだ。状況が変わってな。あの下品な商人崩れどもと、無理に繋がりを作る必要がなくなった」

 父が言う商人崩れとは、ディアナの生家であるデバリー伯爵家のことだ。成金だと見下しながらも、その莫大な財力を手に入れるために、ロバートとディアナの婚約が結ばれた。

 ロバート自身も初めは「どうして高貴な私が、商人崩れの娘と婚約をしないといけないんだ」と不服だった。

 しかし、デバリー伯爵に連れられて侯爵家を訪れたディアナを見たとき、ロバートは「悪くない」と思った。

 やわらかそうなライトブラウンの髪は派手過ぎず、澄んだ紫色の瞳は大人しそうだ。目鼻立ちは整っているし、体型も女性らしい。 

(もっと下品な女がくるかと思っていた)

 ディアナは財力を見せびらかすような派手な装いをしていなかった。ただ、服装が少し子どもっぽい気がするが、それはあとから変えさせればいいかとロバートは思った。

 こうして、二人の婚約は成立したが、ディアナはあまり賢い女ではなかった。
 何度注意してもロバート好みの服装をしてこないし、いつもロバートの機嫌をうまくとることができない。

(気が利かない女だが仕方ない。こんな女をもらってやるのだから、デバリー伯爵にはもっと感謝してもらわないとな)

 しかし、ディアナには良いところもあった。とにかくロバートに従順なのだ。
 間違った行動をすれば、すぐに「申し訳ありません」と謝罪できるし、四季折々に丁寧な手紙と共に豪華な贈り物を寄越してくる。

 そして、ロバートが怒鳴れば、許してほしそうな顔をする。
 ディアナのその顔を見ると、ロバートは胸がスッとするのを感じていた。

 完璧ではないが、そこまで悪くもない婚約者。それがロバートから見たディアナだった。

 それなのに、先日の夜会で倒れてからディアナは変わってしまった。

 ディアナからの手紙には、いつものように謝罪の言葉が綴られ、「どうか許してください」と書かれていると思っていた。それなのに。

 ――そんなに私のことが気に入らないのなら、すぐにでも婚約解消しましょう。私達は同じ気持ちなので、協力できるはずです。

(これは本当にディアナが書いたのか?)

 そう思ってしまうくらい、いつものディアナらしくない。しかもディアナのくせに、ロバートとすぐにでも婚約を解消したいと言っている。

(ふざけた真似を……。私の気を引こうとしているのか? そうでなければ、頭を打っておかしくなったとしか思えない)

 あまりの怒りに我を忘れて、気がつけばデバリー侯爵家に押しかけていた。

「どういうつもりだ、ディアナ!」と怒鳴りつければ、すぐに「申し訳ありません」と返ってくると思っていたのに、ディアナは優雅に微笑んだ。

「いらっしゃいませ、ロバート様」

 そう言ったディアナは、いつもの子どもっぽい服装ではなく、大人っぽい清楚な装いをしていた。それは、ずっとロバートが求めていた姿だったので、思わず目を奪われる。

 ロバートの中で「そこまで悪くもない婚約者」が「完璧に近い婚約者」へと変わっていく。

(ようやく私の言っていることを理解できたか!)

 喜んだのも束の間、ディアナは淡々と生意気なことを言い出した。

「ロバート様は私のことお嫌いですよね?」

 そう言ったディアナは、まるで知らない人のように見えた。

「これまでの態度を見ていたら、さすがに分かります。家のためとはいえ、ここまで嫌われている方に嫁ぐのは、私も避けたいのです」

 何を言われているのか、ロバートはすぐに理解できなかった。なぜなら、こんなにはっきりとディアナが自分の意見を言うのが初めてだったからだ。

「ロバート様だって、もっと気の合う方と婚約したいですよね?」

 それは要するに、ディアナはロバートとは気が合わないと思っているということだ。よく分からない衝撃に襲われて、ロバートは黙った。

 不思議そうな顔をしたディアナが「具合が悪いのですか? 少し失礼しますね」などと言いながら、ロバートの額に手を添える。

 その手の温かさとやわらかさ、そして、至近距離で見たディアナの澄んだ瞳に、なんとも言えない気持ちになった。

 いろんな感情が湧き起こり、何が言いたいのか分からない。ただ、ひとつだけ分かっていることがある。

「婚約解消はしない!」

 そう宣言したあとに、続けて「どうせ、女なんて誰でも一緒だ。だったら、私はおまえでいい」と告げると、ディアナがいつもの表情になった。戸惑うような困っているような、そんな顔だ。

 いつものディアナを見れて、ロバートはどこかホッとした。

「前の夜会で頭をケガしたのだろう? 傷がある女を誰がもらってくれるんだ?」

(そうだ。ディアナを嫁にもらってやるのは、もう私しかいないんだ)

 その事実に、ロバートは気分が良くなる。

(頭のケガが治ったころには、またいつものディアナに戻っているだろう)

 そうして、ディアナのことを忘れて過ごしていたら、コールマン侯爵家に王家の使者が訪れた。

「何事だ?」と思っていたら、使者が帰った後に、父からディアナと婚約解消したことを知らされた。

「そんな、私の意見も聞かずに勝手に!?」

 怒りを覚えるロバートに、父は冷たい視線を向ける。

「どうして私が、未熟なおまえの意見を聞かねばならんのだ? おまえは私に従っていればいい」

 ここで反論すればまたひどく殴られる。ロバートは、ぐっと拳を握りしめながら父を睨みつけた。

「心配するな、ロバート。デバリーの娘より、もっといい女と結婚させてやる」

 それならばいいかと納得しようとしても、心がざわついて「はい」と言うことができない。

 父はニヤリと口端を上げた。

「だが、あの財力は惜しいな。デバリーの娘は、愛人にでもして囲え。愛しているふりをして、金だけ巻き上げろ」

 ロバートは、いろんな感情を押し殺して、なんとか「……はい」とつぶやいた。

 父と会話をした後は、いつも無性にディアナに会いたくなる。

 ディアナの前では、感情を抑えなくていいし、言葉を呑み込む必要もない。そんな都合がいいディアナを、ロバートは手放す気は少しもなかった。

(ディアナは、頭に傷がある。そんな女を嫁にもらおうとするまともな高位貴族はいない)

 嫁ぎ先は、良くて貧しい下位貴族か、老貴族の後妻か。

(侯爵夫人になれたはずのディアナが、そんな結婚で満足できるはずがない。そのうち、ディアナのほうから『助けて』と私に泣きついてくるだろう)

 そう考えると、ようやくロバートの心は落ち着いた。