それからすぐにグレッグは、ディアナを当主代理にするための書類を作成した。書類を受け取った執事は、ゴクリと唾を呑み込む。

「これに旦那様のサインをもらえば、ディアナお嬢様が当主代理になれるのですね?」
「そうです。正確には、サイン入りの書類を王宮に提出すればですが」

 執事は、「必ずサインしていただきます」と硬い表情で頷いた。

 しかし、一週間経っても父は家に帰ってこなかった。

(その間に、私は当主の仕事をいろいろ教えてもらえたけど、いくらなんでもお父様は仕事を溜め過ぎだわ)

 事務室の端に積み上げられたサイン待ちの書類の山は、今にも崩れてしまいそうだ。
 こんな状態が続いているのなら、父が執事に見限られてしまったことにも納得してしまう。

 さらに一週間が経ったとき、ライオネルに報告に行っていたグレッグが戻ってきた。そして、ディアナに「ロバート卿との婚約を解消する準備が整いました!」と告げる。

「本当ですか!?」と喜ぶディアナに、グレッグは丸めていた書簡を広げて見せた。

「はい。ライオネル殿下がうまくやってくださいましたよ! すでにコールマン侯爵のサインはいただいています。あとは、バデリー伯爵のサインがあれば婚約解消が成立です!」

 ディアナは、そばにいた執事に向かって頷いた。

「お父様をすぐに呼び戻して。王家からの使者様が来ていると伝えればいいわ」
「はい!」

 走り去る執事の後ろ姿を見送った後、ディアナはグレッグに小声で話しかけた。

「ライオネル殿下は、どのように婚約解消を進めてくださったの?」

 コールマン侯爵家とバデリー伯爵家の間で大きな事業が進んでいたが、ライオネルは「双方が不利益にならないように、こちらで調整する」と言っていた。

「それは、殿下ご本人からお聞きください。殿下のすごさが分かりますよ」と、グレッグは自慢気だ。グレッグから出てきた白い蝶は『さすが殿下』とライオネルを褒めている。

(ライオネル殿下は、騎士団の皆に愛されているのね)

 執事が愛人のもとへ行っている父を連れ戻すまで、少し時間がかかりそうだ。
 ディアナはグレッグと、ディアナの背後に直立し、護衛をしてくれているカーラを順に見つめた。

「そのことは殿下に教えていただくとして、他にも殿下のすごいところがあれば、知りたいのだけど……」

 二人は前のめりぎみに「もちろんです!」と拳を握る。

 カーラが戦場でライオネルに助けられた話をすれば、グレッグはライオネルが支援部隊を率いていた子爵の不正を見抜いた話を熱く語る。

 ディアナが「殿下って優秀な方なのね」と感心していると、二人は「そうなんです!」と声をそろえた。

「あとは殿下と共に歩んでくださる素敵な女性がいれば完璧です。そう、ディアナ様のような聡明な方が!」
「ディアナ様、殿下のことをよろしくお願いします!」

 グレッグはさておき、契約婚約のことを知っているカーラですら、ディアナに期待の目を向けている。

「でも、そんなに素敵なら、今まで殿下を想う女性は多かったでしょう? だって、騎士団には女性騎士もいるのだから。カーラはどうなの?」

 カーラは驚きに目を見開き「とんでもない!」と両手を振る。

「そんな恐れ多いこと考えたこともありません! 殿下はあくまで主です。それに、私は……」

 カーラがチラッとグレッグを見ると、グレッグは頬を染めた。見つめ合う二人の頭上から、赤い花びらが降ってくる。

「あなた達は……」

 ディアナが言葉を言い終える前に、客室に勢いよく父が飛び込んできた。

「王家からの使者だと!?」

 姿勢を正したグレッグが、父に書簡を見せる。

「こちらをお読みください。納得できればサインをお願いします」

 書簡の文字に目を走らせながら、「悪くない条件だ」と父は呟く。追いついた執事が父にインクをつけた羽ペンを手渡した。

 それを受け取った父は、「コールマン侯爵がすでにサインしていたら、私もするしかないですな」とニヤつきながらサインする。

 そのときすかさず、執事が「旦那様、こちらにもサインをお願いします」と書類の束を差し出した。

「今は使者様の前だぞ。それはあとだ」
「しかし、どれもこれも急ぎです。せめてサインだけでも」

 懇願する執事に、父は舌打ちした。そして、グレッグに向かって「すみませんな」と言いながら、ろくに書類も見ずにサインしていく。

 執事がこっそりとディアナに向かって片目をつぶったので、どうやら当主代理の書類にうまくサインさせることに成功したようだ。

 グレッグが「では、これで失礼します」と部屋から出て行こうとしたとき、執事がこっそりとグレッグに書類を一枚渡すのが見えた。

(これでロバート様との婚約を解消できて、私が当主代理になれるのね)

 胸のつかえが取れたように、清々しい気分だ。

 父と執事を残して、ディアナは客室から出た。そのあとをカーラもついてくる。

「あっ、そういえば、カーラとグレッグの関係って?」

 カーラは気まずそうに、自分の頭に手をおいた。

「あ、えっと、恋人です」
「えっ?」
「そのっ、騎士団内は、恋愛禁止ではなくてですね!?」

 顔を真っ赤にして慌てるカーラに、ディアナは「それって、愛しているってこと?」と尋ねた。

「ま、まぁそうですね」

 その言葉を聞いたディアナは、言葉を失った。

(幻覚の花びらは、『愛している』という意味だったの?)

 もしそれが本当ならば、ライオネルが降らせていた花びらは、ディアナへの好意だと読み取れる。

(でも、待って……)

 ディアナは、ライオネル以外の男性と話しているときにも、花びらが降ってきたことがある。

 ライオネルのときとは違い、真っ黒な花びらを降らせたのは、たった今、婚約が解消され、元婚約者となったロバートだ。

(それって、ロバート様が、私に好意を抱いていたってこと?)