ディアナが家に帰ると、使用人達はどこかピリピリしていた。ディアナを出迎えるメイドの数もいつもより少ない。

(きっと、お父様が久しぶりに戻られたのね)

 予想通りメイドの一人が、ディアナに父の帰宅を告げた。

「ディアナお嬢様。旦那様がお呼びです」
「すぐに行くわ」

 父にはいろいろ相談したいことがあったし、何よりライオネルとの婚約を認めてもらう必要がある。

 ディアナは、まっすぐ父の執務室に向かった。

「ディアナです。失礼します」

 執務室内の空気は、さらにピリついていた。デバリー伯爵家に長く使える執事が、書類の束を抱えながら、何やら父に報告している。

 難しい顔をしていた父は、ディアナのほうを振り向きもしない。代わりに執事が「お嬢様、申し訳ありません。少し座って待っていていただけないでしょうか?」と申し訳なさそうにしている。

 執務室のソファーに座ったディアナは、「お父様に何から説明しようかしら?」と考えながら待っていた。

 しばらくすると、父の口から重いため息が漏れた。

「分かった。その件はあとだ」

 シッシッと執事を手で追い払ったあと、父はディアナの向かいのソファーに腰を下ろす。

「お父様、おかえりなさい」
「ああ」

 すぐに父から灰色の蝶が出てきた。

(お父様の蝶は、何を言うのかしら?)

 ヒラヒラと飛ぶ蝶を、ディアナが見つめていると『うっとうしい』と聞こえてくる。

(よほど、お仕事が忙しいのね)

 密かに小さく頷いたディアナに、父は手紙を見せた。手紙はすでに開封されている。

「侯爵家からだ」
「ロバート様からですか?」とディアナが尋ねると父は首を左右に振った。

「いいや、コールマン侯爵からだ」
「ロバート様のお父様から?」

 何事かと思っていると、父がまたため息をつく。

「ディアナ、いったい何をしたんだ? コールマン侯爵は、おまえがこの婚約を軽視していると大層ご立腹だぞ」
「中を確認してもいいでしょうか?」
「ああ、読んでみなさい」

 そこには、ディアナが婚約者としていかに不誠実かが殴り書きで書かれ、さらにディアナがロバートに送った手紙の内容にも触れられていた。

(私が夜会で倒れたことが侯爵様のお耳に入ってしまったのね。それに、ロバート様に『すぐにでも婚約解消しましょう』と書いて送った手紙も侯爵さまの目に触れてしまったみたい)

 これほど怒っているのだから、この婚約を解消でもしてくれるのかと期待したが、手紙の最後は『今後は誠実な対応を求める』で締めくくられている。

(ロバート様との婚約は継続……)

 手紙を読み終えたディアナは『お父様に、何から話せばいいのやら』と内心で頭を抱えた。

「実は、先日の夜会でケガをして倒れてしまったところ、第二王子殿下に助けていただいたのです」
「ああ、それはついさっき執事から聞いた。大丈夫だったのか?」
「はい。でも、王太子殿下の前での失態ですので、コールマン侯爵が怒るのも無理はありません。ロバート様からもお叱りを受けてしまいました」

 父の灰色の蝶がまた『うっとうしい』と囁く。

(お父様もコールマン侯爵家にあまりいい感情がないようね。これなら、うまく婚約解消できるかもしれないわ)

 ディアナは、慎重に言葉を選んだ。

「そこで第二王子のライオネル殿下から、その、新たに婚約のご提案をいただきまして……」

 チラッとディアナが父の顔色を伺うと、父は驚きで目を見開いていた。

「ディアナ。それは、もしかしてロバート卿との婚約を解消して、第二王子殿下と婚約を結ぶという話なのか?」
「はい」

 ディアナが頷いたとたんに、父の蝶が『邪魔をするな!』と叫んだ。

(邪魔?)

 父の灰色の蝶は『うっとうしい』と『邪魔だ』と繰り返しながら周囲を飛んでいる。

「賛成できない。コールマン侯爵とは事業の話が進んでいる。それがお前たちの結婚をもって成立するのだ。今さら解消などと……」
「その件ですが、ライオネル殿下なら円満に解決ができるそうです。決して悪いようにはしないとも言ってくださいました」
「……」

 父は納得できないようで、眉間にシワを寄せている。静かな室内に、灰色の蝶の『邪魔だ』と言う声だけが響いていた。

「お父様、ライオネル殿下は噂のような怖い方ではありません」
「ディアナはそれでいいのか?」
「はい、私はむしろそのほうがいいです」
「しかし、我が家に第二王子殿下をお迎えするのは、さすがに……」
「ライオネル殿下では、ご納得いただけませんか?」
「いや、そういうわけでは……」

 どうも歯切れが悪い父に、ディアナは首をかしげた。そして、まだ伝えていなかったことがあったことを思い出す。

「あっ、そういえば殿下は近々公爵位を賜るそうなので、私が嫁ぐことになると思います。なので、殿下をこの家にお迎えすることはありませんよ。私がこの家を継ぐことはできませんから」

 ロバートとの婚約のときもそうだったので、問題ないだろうと思っていたが、ディアナは一応伝えた。
 そのとたんに父の蝶が真っ白になり『嬉しい』と呟く。

(えっ?)

 ずっと『うっとうしい』『邪魔だ』と繰り返していた蝶が、ディアナが嫁ぐと分かったとたんに喜んだ。

(これって、どういう意味なの?)

 父のこれまでの言葉をいったん横に置いて、蝶の言葉だけを考えてみる。

(もしかして、お父様にうっとうしがられているのは私? だとしたら、邪魔な私が嫁いで家から出て行くことを喜んでいるの?)

 父は先ほどまでとは打って変わり、ニコニコしている。

「ディアナが望むならそうしよう」

 信じられない気持ちで、ディアナはおそるおそる口を開いた。

「もし、もしですよ? お父様がどうしてもとおっしゃるなら、ライオネル殿下は当家に婿入りしてもいいと言ってくださっています」

 これは嘘だ。父の本音を見極めるために、ディアナがとっさに考えた偽りの情報。
 そのとたんに父の顔色が変わった。白色の蝶は真っ黒に変わり、ディアナに『邪魔だ』と告げる。

(ああ……やっぱりそうなのね)

 何らかの理由で父は、ディアナをこの家から追い出したがっている。そして、そんな様子を微塵も見せず、「わざわざ公爵夫人の地位を捨てる必要はない。跡継ぎのことは気にしなくていい。おまえの幸せが一番大切なのだから」などと優しい言葉をかけてきた。

(お父様……。どうして?)

 父の言葉を、ディアナはもう素直に受け取ることができなかった。