「ディアナ! ディアナ・バデリー!」

 責めるような声で婚約者に名を呼ばれ、伯爵令嬢であるディアナは我に返った。

 とたんに、パーティー会場内の音楽やざわめきが戻ってくる。

(そうだわ。私は今、ロバート様と王宮主催の夜会に参加中で……)

 目の前には、銀色の髪をきれいに整え、夜会用の正装をした侯爵令息ロバートが立っている。ディアナに向けられたエメラルド色の瞳はひどく冷たい。

「ディアナ、夜会の最中にぼんやりするな!」

 パーティーに参加している他の人達に聞こえないようにするためか、ロバートの声量は抑えられている。

「申し訳ありません」

 ディアナが謝罪すると、ロバートからはため息だけが返ってきた。

(まただわ……)

 ディアナはロバートの、このため息が苦手だった。

 つい先ほどもロバートに「もう少しマシなドレスはなかったのか? アクセサリーも安物っぽいな」とため息をつかれてしまい、どう返事をすればいいのか分からず、一瞬だけ頭が真っ白になってしまっていた。

(せっかく、ロバート様の緑色の瞳にドレスを合わせたのに)

 きれいに結い上げたディアナのライトブラウンの髪には、銀色の髪飾りが輝いている。イヤリングやネックレスも、すべてロバートの髪色に合わせて銀でそろえた。

 そうすることで、ディアナは婚約者として最大限の気遣いをしているつもりだ。

 仲のいい婚約者なら男性から女性にドレスを贈ると聞くが、ロバートがディアナにドレスを贈ったことは一度もない。

(ドレスやアクセサリーにこだわりがあるのなら、ロバート様が選んだものを贈ってほしいわ)

 そう言ってしまいたい気持ちを、ディアナはグッとこらえた。

 ロバートのコールマン侯爵家は、王家の覚えめでたい名家だ。それに対してディアナのバデリー伯爵家は、金はあるが貴族としての歴史が浅く、侯爵家の足元にも及ばない。

 その証拠に夜会に向かう前、ディアナは両親から「くれぐれもロバート様の機嫌を損ねないように」と強く念押しされている。

(気をつけていても、ロバート様はため息ばかり……。これ以上、どうすればいいの?)

 ディアナがそう思っている間にも、ロバートがまたため息をついた。

「まったく君はいつもそうだ。少しも周りが見えていない。そんな婚約者がいる私の身にもなってほしい!」

 だんだんと大きくなっていくロバートの声に、周囲の人達が何事かと視線を向ける。

「ロバート様、それ以上は……。気分転換にバルコニーへ行きませんか?」

 ロバートもここではまずいと思ったようだ。嫌そうにディアナをエスコートしながら、バルコニーへと向かう。

 バルコニーに出ると、ひんやりとした夜風がディアナの頬を優しく撫でていった。
 その心地よさにディアナは落ち着いたが、ロバートはそうではないようだ。バルコニーの柵をガンガンと叩きながら、怒りをぶつけている。

「ロバート様。手を傷つけてしまいますわ」

 ディアナが、ロバートの腕にそっと触れたそのとき、「うるさいっ!」とロバートが勢いよくディアナの手を振り払った。

 驚きと共に足元がふらつき、ディアナの視界に夜空が映る。

 輝く星々を『きれい』とディアナが思った瞬間、ロバートが「危ないっ!」と叫んだ。

 ガンッと大きな音と共に、ディアナはバルコニーの柵に後頭部をぶつける。

「ディアナ!」

 倒れたディアナに駆け寄ってきたロバートの瞳は、大きく見開いていた。

「大丈夫か!?」

 頭はひどく痛むし、ディアナの視界はチカチカと点滅している。

「ディアナ、立てるか?」

 気遣うようなロバートの声を聞きながら、ディアナはなんとか立ち上がった。すると、めまいに襲われふらついてしまう。

 倒れてしまわないように、バルコニーの柵に掴まりながらじっと耐えていると、次第にめまいがおさまっていった。それでも、視界のチカチカは消えない。

(こんな状態で、パーティーなんて無理だわ)

 ディアナを見ていたロバートは、「大丈夫そうだな」と言いながら迷惑そうに眉間にシワを寄せた。

「少し私の腕が当たったくらいで、大げさな態度をとるな!」
「ロ、ロバート様……。今日はもう、帰らせていただきます」
「何を言っているんだ?」
「頭を打ってしまい……」

 そのとき会場にファンファーレが鳴り響いて、ディアナの言葉を遮った。

 ロバートは「王族の誰かが来られたようだな。行くぞ」と乱暴にディアナの腕を引く。力強いその腕から逃れることができず、ディアナはまるで引きずられるように会場へと戻された。

 人だかりの中心にいるのは、まばゆい金髪と知的な青い瞳を持つ美しい青年だ。

「王太子殿下が来られたのか。お会いするのは久しぶりだな」

 ロバートは、王太子と面識があるようだった。ディアナは、式典などで遠くから見たことがあるだけだ。
 ただでさえ、王族に挨拶をするなんて緊張してしまうというのに、今のディアナは頭が痛くてそれどころではない。

「ロバート様……。私、もう帰ります……」
「は? 挨拶をするくらいならできるだろう?」

 そんな会話をしているうちに、王太子がこちらに近づいてきた。

(ここまで来て、ご挨拶をしないわけにはいかないわ。挨拶が終わったら、すぐに帰らせてもらいましょう……)

 ディアナは、頭の痛みに耐えながら、ロバートの腕に自分の手を添えた。形だけでも、ロバートにエスコートされているように見せなければいけない。

 王太子が、ロバートに向かって片手を上げる。

「久しいな、ロバート卿」
「王太子殿下にご挨拶を申し上げます」

 ロバートの挨拶に合わせて、ディアナも淑女の礼(カーテシー)をとった。そのとたん、頭がさらにズキッと痛む。

(我慢よ、我慢。この挨拶さえ終わったら、何が何でも家に帰るわ)

 頭の痛みはどんどん強くなり、目の前で談笑している王太子とロバートの声が耳に少しも入ってこない。
 今ここで倒れたら、ロバートにため息をつかれるくらいではすまないだろう。

(お願いだから、早く終わって……)

 ディアナが必死に痛みに耐えていると、徐々にディアナの視界がぼやけていった。

(もう、だめ……。立っていられない)

 ディアナがそう思った瞬間、力強く抱き止められた。周囲で悲鳴が上がったような気がする。痛みに耐えながらなんとか目を開くと、ディアナは黒い仮面をつけた金髪の男性に抱きとめられていた。

 仮面には装飾品が一切ついておらず、顔の半分以上を覆ってしまっている。だから、ディアナを支えてくれている男性は、目の部分と口元しか見えない。

「どこが痛むんだ?」

 声は淡々としているのに、仮面の隙間から見える瞳は青く、とても澄んでいた。

 ディアナが小さく首を左右に振ると「嘘をつくな。今のお前は戦場で負傷した兵士と同じような顔をしているぞ」とあきれたような声が返ってくる。

「あ、頭が」

 ディアナがそう伝えると、ロバートが怒鳴った。

「おおげさなことを言っていないで、今すぐ立つんだ。ディアナ!」

 仮面の青年は、「失礼」と声をかけるとディアナの髪にそっと指を差し入れる。

「ライオネル殿下!? ディアナに何を?」

 仮面の青年は自身の指を見せた。その指先は赤く染まっている。

「血だ。令嬢はケガをしている」