終わらない物語を君へ

 玄関のドアが閉まる音がして、部屋の中に静けさが戻った。
 蓮はしばらくその音を聞いていたが、やがてゆっくりと立ち上がった。

 見慣れない部屋。
 白いカーテン、半分ほど開いた本棚、ベッドの上には畳まれたみどりのパジャマ。
 その一つひとつが、なぜか“懐かしい”と感じられる。

「……これが、彼女の世界か」

 呟きながら、窓の外に目をやる。
 朝の光がビルの壁に反射し、遠くで車の音が聞こえた。
 本の中では聞いたことのない、現実の音。

 蓮は小さく息を吐いた。
 鼓動がゆっくりと、でも確かに鳴っている。

 ――ここは、物語の外だ。

 それでも、自分の中には確かに“みどり”の名前が残っている。

 その名前が、物語の主人公と同じだったからなのか、そうではなく特別な意味をもっているのか、なんて。
 自分ではよくわからなかった。

 ベッドの横には、小説が置かれていた。

 表紙は藍色にキラキラのラメが入っていて、それは星屑のようで綺麗だった。
 白印刷の題名が目を引く。

 そっと手を伸ばして触れる。
 紙の手触り。文字のインクの匂い。

 みどりが何度も読んだ痕跡。
 折り目、インクのにじみ、小さな付箋。

 ――このページを、彼女は何度読んだんだろう。

 気づけば、蓮は微笑んでいた。

「君は、ここまで僕を想ってくれていたんだね」

 その瞬間、ページの文字がふっと揺らいだ。
 まるで風が吹いたように。

 指先に感じたのは、ほんのかすかな痛み。
 見下ろすと、ページの端が切り傷のように指先をかすめていた。
 血が、にじむ。

 赤。
 それは、確かに“現実”の色だった。

 蓮はしばらくその血を見つめたあと、ゆっくりと笑った。

「……そうか。僕は、もう“書かれた存在”じゃないんだ」

 その言葉が空気に溶けていく。
 静かな部屋の中で、時計の秒針だけが淡々と時を刻んでいた。