夏夜恋

 水族館を後にして駅へ向かう道。夕暮れの光が街を金色に染め、アスファルトや建物の影を長く伸ばしていた。海風が混ざり、潮の匂いがふわりと漂う。僕と一夏は並んで歩きながら、それぞれに今日の思い出を反芻(はんすう)していた。

「理久くん、今日ね、ほんとに楽しかった」

「俺もだよ。ずっと笑ってたな」

 一夏は肩を少し寄せてきた。夏の夕方の柔らかい光の中で、その細さがひどく愛おしく見えた。


 駅に着くと、ホームには人々のざわめきと電車の音が混ざっていた。僕らは電車に乗り込むと、並んで座った。車内の照明はやわらかく、外の赤く染まる空を映している。

「ねえ、理久くん」

「ん?」

「今日、思ったんだけど⋯⋯私、こうやって一緒にいられる時間が、本当に大切なんだなって」

 一夏の声は小さく、でも確かに僕に届いた。胸の奥がぎゅっと締め付けられる。

「俺もだ。今日のこと、忘れたくない」

「うん。忘れちゃダメだよ」

 しばらく無言で車窓を見つめる。オレンジ色の光が電車の窓を通して反射し、二人の影を座席に落としていた。

 
 やがて、電車は徐々に夜の街へ滑り込む。窓の外は昼の名残を残した空から、濃紺の夜へ移り変わっていく。街灯がぽつぽつと灯り、遠くの海には波間の白が光っている。

「理久くん、見て」
 
 一夏が窓に顔を近づけ、指で何かを指した。

 小さな漁火(いさりび)が夜の海面に点々と揺れていた。まるで水族館のクラゲのように、夜の闇に浮かぶ光。

「きれいだね⋯⋯」

「うん。今日見た魚たちやイルカ、クラゲみたいだ」

「そうだね⋯⋯でも、やっぱり理久くんと一緒に見られたって事が、一番きれいだった」

 言葉をかけられると、胸が熱くなる。どう返せばいいか分からず、僕はただそっと微笑むしかなかった。

 電車が駅に着き、家路につく人々の波に紛れて降りる。改札を出ると、夜風がひんやりと肌を撫でる。一夏は少し疲れたのか、僕の腕にそっと寄りかかった。

「理久くん、今日はありがとう」

「俺こそ、ありがとう。楽しかった」

「また⋯⋯行こうね」

「ああ、また行こう」

 家に戻ると、窓の外には満月がかすかに光を落としていた。二人で見上げた空は、昼間の水族館の青とも、夕暮れのオレンジとも違う、静かな銀色だった。

 その夜、布団に入ると今日の一日がゆっくりと思い返される。イルカショーで跳ねた水しぶき、タッチプールで慌てた手、クラゲの光に包まれた幻想的な時間──

 すべてが、夢のように鮮やかで、儚く、そして愛おしかった。

「また⋯⋯明日も、こんな日が続けばいいな」

 心の中でそう呟くと、夜風がカーテンを揺らし、夏の香りと潮の匂いを部屋に運んできた。
 僕は深く息を吸い込み、静かに目を閉じた。夏の一日は終わったが、心の中の輝きは、まだ長く、長く続いているように感じた。