夏夜恋

 水族館の中を歩き回っているうちに、時計は昼過ぎを指していた。足元も少し重くなり、一夏のお腹が小さく「ぐぅ」と鳴ったのを、僕は聞き逃さなかった。

「⋯⋯ねえ、なんか聞こえなかった?」

「な、なにが?」

「今、お腹鳴ったろ」

「き、聞こえちゃった? やだぁ⋯⋯」

 恥ずかしそうに頬を赤らめる一夏に、僕は思わず笑ってしまう。彼女は唇を尖らせたが、すぐに笑いに変わった。


 僕らは館内のカフェテリアに入った。大きな窓からは海が見え、光がテーブルに反射してきらきらと踊っていた。メニューにはシーフードカレーやパスタ、子ども向けのキャラクターランチまで揃っている。

「どれにしようかなあ⋯⋯全部おいしそう」

「そんなに迷うと決められないよ」

「じゃあ理久くんが決めて」

「え、俺が?」

「うん。たまには任せてみたいな」

 彼女の真剣な瞳に押されて、僕は少し考えた末にパスタとサラダのセットを選んだ。一夏は「ふふ、いいね」と頷き、同じものを頼んだ。

 席に着き、料理を待ちながら他愛のない会話をしていたとき、僕はふと嫌な感触に気づいた。ポケットを探っても、財布がない。

(やばい⋯⋯まさか⋯⋯)

 焦りで背中が冷たくなる。

「どうしたの?」

「⋯⋯その、財布⋯⋯落としたみたいで」

 一夏は一瞬目を丸くしたが、すぐに吹き出した。

「ふふっ⋯⋯そんな顔しないで。今日は私が出すから」

「いや、でも⋯⋯」

「いいの。だって、デートっぽいじゃない。私が奢るの、ちょっとカッコいいでしょ?」

 冗談めかして笑う彼女の表情に救われ、僕は小さく「ありがとう」とつぶやいた。

 彼女には、助けてもらってばっかりだと、情けなく思った。

 ほどなく運ばれてきたパスタは、湯気とともにバジルの香りを漂わせていた。一夏はフォークを器用に回して口に運ぶ。頬をふくらませて食べる様子は子どものように無邪気で、僕は見惚れてしまった。

「ん⋯⋯美味しい! 理久くん、ナイスチョイス!」

「そ、そう?」

「うん。今日の一日で三回くらいはポイント上がったね」

 そう言って彼女はウィンクをしてみせた。その仕草に僕の心臓は跳ね、視線を慌てて皿に落とした。


 昼食を終えたあと、受付に行って財布が届いてないかを確認した。
 財布の特徴を伝えると、僕の財布が返ってきた。学生証を入れていて、良かった、と安堵した。


 僕らは再び館内を回った。やがて、最も有名な展示である大水槽の前に辿り着く。

 高さ十メートルはある巨大なガラスの向こうに、深い蒼が広がっていた。エイが悠々と羽ばたくように泳ぎ、巨大なマンタの影がゆっくり横切る。その奥には、サメや無数の魚たちが果てしなく続く海の群像のように漂っていた。

 二人はベンチに腰掛け、ただ黙って水槽を見つめていた。青の揺らぎが頬に反射し、時間が止まったようだった。

「⋯⋯ねえ、理久くん」

「ん?」

「私、やっぱり来られてよかった。こんなにきれいなもの、一緒に見られるんだもん」

 彼女の声は水の中に溶けていくように穏やかで、どこか遠い。僕は言葉を探し、結局「俺もだよ」とだけ返した。

 大水槽の前で過ごした時間は、ほんの数分だったのかもしれない。けれど、僕には永遠のように思えた。


 大水槽を後にして、僕らは次の展示エリアへと足を進めた。そこにあったのは、子どもたちに人気の「タッチプール」。ヒトデやナマコ、小さな貝が浅い水槽に並べられ、自由に触れることができる。

「へぇ、触っていいんだ」

「わぁ⋯⋯ドキドキするね」

 一夏は恐る恐る指先を水に浸した。冷たさに肩をすくめながらも、近くにいたヒトデをそっと持ち上げる。

「⋯⋯かたい。もっとぷにぷにしてると思った」

「ナマコならぷにぷにしてるんじゃない?」

「え、やだ、気持ち悪そう」

 そう言いながらも、一夏は僕に背中を押されるようにしてナマコに触れた。指先でそっと押した瞬間──。

「ひゃあっ!」

 思わず声を上げて手を引っ込める。慌てて水滴を払う姿に、僕は笑いが止まらなかった。

「理久くん、笑いすぎ!」

「だって⋯⋯そんな反応するとは思わなかったんだよ」

「もう、意地悪!」

 頬をふくらませながらも、彼女の目は楽しそうに輝いていた。


 タッチプールを抜けると、館内アナウンスがイルカショーの開始を告げた。僕らは急ぎ足でスタジアムへ向かった。観客席はすでに人でいっぱいだったが、なんとか二人並んで座ることができた。

 やがて音楽とともにショーが始まる。イルカたちが軽やかに宙を舞い、ボールを器用に弾き、観客に水しぶきを浴びせる。大きな拍手と歓声が響くなか、一夏は子どものように身を乗り出していた。

「すごい! 本当に跳ぶんだね!」

「イルカって、あんなに高く跳べるんだな」

 次の瞬間、イルカが水面を割って大ジャンプを披露。豪快な水しぶきが客席に飛び、前列の人たちは一斉に悲鳴を上げた。僕らの席には届かなかったが、一夏は大笑いして手を叩いた。

「いいなぁ、ちょっとくらい濡れても楽しそう」

「さっきペンギンで十分だろ」

「ふふ、それもそうか」

 ショーの最後、イルカとトレーナーが一緒にお辞儀をすると、会場は大きな拍手に包まれた。一夏は手を赤くなるほど叩いていた。

 ショーが終わると高校生であろう、男女二人が、手を繋いで楽しそうに帰っていた。

「水しぶきすごかったな、阿瀬!」

「うん! てか蘇枋くん、前髪濡れちゃってるよ」

 完全にカップルだ。僕たちも、周りから見たら、こう見られてるのか? と考えてしまった。


 その後も展示を巡り、午後の時間はあっという間に過ぎた。気づけば窓の外は夕暮れに染まり始めていた。

 館を出ると、茜色の空に薄い雲が流れていた。海辺の風は少しひんやりして、昼間の熱気を忘れさせる。

「ねえ、理久くん」

「ん?」

「今日ね、本当に幸せだった」

 彼女は立ち止まり、空を仰いだ。夕陽に照らされた横顔は、どこか儚く、それでも輝いて見えた。

「俺もだよ。⋯⋯一夏が楽しそうで、よかった」

「ふふ。これからも、こういう日をいっぱい作ろうね」

 彼女の言葉に、胸の奥が強く締めつけられる。──「これから」なんて、あとどれほど残されているのか。考えまいとしても、思考はそこに行き着いてしまう。

 けれど僕は、笑顔を作って答えた。

「ああ、いっぱい作ろう」

 二人の影は長く伸び、海へと吸い込まれていった。