文化祭が近づくにつれて、校内の空気がどこか光を帯びているように感じる。放課後の教室は、どこも浮き足立ちながらも真剣だ。

 私たち1年B組の教室も、例外じゃない。ある人は布を裁ち、ある人は段ボールを運ぶ。教室の前方では、演者の皆が台詞を合わせている。六月の湿気に息苦しさを感じて窓を開けると、風の向こうから吹奏楽の音階がかすかに届いた。

私は床いっぱいに段ボールを並べて、刷毛で紫をひろげていく。砂漠の夜は真っ黒じゃない。少し藍を混ぜて、乾く直前に水を含ませた布で縁をぼかすと、少しずつ夜が咲く。

集中して刷毛を動かしていると、明るい声が弾けて聞こえてきた。

「雨衣ちゃん!見て見て」

目の前には、アラビア風のメイド服に身を包んだ花菜ちゃんと、恵理子ちゃんが立っていた。
ほんわかしたお花みたいなイメージの花菜ちゃんにぴったりの薄紅梅色の布がサラサラと揺れて、メイドというよりもお姫様みたいだ。

「花菜!あんまり動いて裾踏まないでよ……って、それ背景?すごい!」

いつもしっかり者の恵理子ちゃんが、砂漠の夜を見て目を輝かせてくれるのが、堪らなく嬉しくなる。恵理子ちゃんは、花菜ちゃんとはまたイメージが違っている。深い萌葱色の衣装は、背が高く大人っぽい恵理子ちゃんをより魅力的にしていて、なんだか、女王様みたいな迫力がある。

「ありがとう。二人とも、すごく素敵で……。本当に可愛いし、お姫様と女王様って感じ!」

興奮気味に伝えると、二人とも満更でもなさそうにイタズラっ子のように笑う。そしてすぐに、恵理子ちゃんは教室の前方を見た。

「でも、本物の女王様はあそこにいるけどね」

恵理子ちゃんの視線の先には、教壇の上でラストシーンの練習をしている篠原さんと坂本くん。ロイヤルパープルの豪華な衣装に身を包んだ篠原さんは、女の私でもドキリとしてしまうくらい可愛らしい。アラジンの衣装に身を包んだ坂本くんも、長い手足に衣装がしっくり馴染んでいる。
二人のいる空間だけ、異世界みたいだ。

「それにしても距離近いな」

恵理子ちゃんがぼそりと呟く。本当に、見ているだけの私まで恥ずかしくなるくらいの近さだ。二人の距離は、少し押せば触れ合うくらい。篠原さんが大きな瞳で坂本くんを見上げて、練習なのに一つの場面みたいだ。

「篠原さんって、演技派なんだね」

私が関心しながら囁くと、花菜ちゃんと恵理子ちゃんが同時に苦笑する。

「雨衣ちゃん……多分それは違う気もするかも……」
「篠原さんは坂本くん狙いなんだよお」

思いがけない花菜ちゃんの鋭い一言に、思わず笑ってしまう。そういうことなのか、と。

 廊下を通りかかる生徒たちがちらちらと覗いていき、「坂本くんかっこいい」「篠原さんかわいい」と黄色い声をあげている。教壇では、総監督の土屋くんや、台本を書いた山崎さんが指示を飛ばし、教室の前方はキラキラとした熱を帯びていた。

そうしていると、恵理子ちゃんと花菜ちゃんの練習の出番になり、土屋くんに呼ばれる。私と恵理子ちゃんたちはお互い「頑張って」と言い合って、持ち場へ戻っていった。

 私は夜の背景が一段落ついて、刷毛を水に落とした。紙コップに立てた刷毛が、ぱしゃり、と小さく息をつく。段ボールを床に広げて乾かしていると、視線の端に背の長い影が落ちた。

「天野さん」

坂本くんの声がして、驚いて目線を上げる。ついさっきまで篠原さんと恋人みたいに並んでいた姿を見ていたから、胸の奥がわずかにドキリとしてしまう。

「顔にペンキついてる」
「えっ、どこ!?」

 反射で頬を手の甲でこする。

「取れたかな?」

私が坂本くんを見上げながら聞くと、涼しい顔をしていた坂本くんが、少し間を開けて、口元を骨張った手で覆う。

「どうしたの!?」
「……余計にひどくなってる」

 坂本くんが、ほんの少しだけ笑った。たまに垣間見える坂本くんの笑顔は、年相応で、なんとなく可愛らしい。

ふいに坂本くんの指先があがる。私の目線のすぐ前、頬の辺りに坂本くんの長い指が見える。反射的にぎゅっと目を瞑った。

でも、何もなくて、私は恐る恐る目を開けた。さっきまで目の前にあった坂本くんの指は、代わりに坂本くん自身の頬を指している。

「ここらへん。鏡、見てこれば」
「あ、うん、ありがとう」

 水道へ駆けていき、鏡を覗くと、紫の雲が頬に広がっていた。確かに、これはクールな坂本くんでも笑っちゃうくらい酷いなと苦笑する。

石鹸で落としながら、さっきの指の止まり方を思い出す。

(さっきの、なんだったんだ……?)

触れそうで、触れなかった。ほんの一瞬の距離。
それだけのことなのに、胸の奥でざわざわと風が巻き起こる。私はぶんぶんと頭を振った。こんな小さなことで動揺する自分が訳わからなくて、少し腹立たしい。頬を拭ったタオルに残る紫色が、瞼の裏でまだ揺れていた。