五月の日曜日は、澄んでいる。駅前へと続く道には新緑が影を落として、軽装になった人たちが週末の空気を纏って、それぞれの予定に向かって歩いていた。少し湿り気を帯びた風が、初夏の匂いを運んでくる。

 コンビニの中は、外よりも静かだ。平日に比べて、時間が緩やかに進んでいる。
 レジの横では、八木崎さんが大きな欠伸をしていた。寝癖が昼の光を反射して、気怠げに跳ねている。

「寝不足ですか?」

 タバコの補充をしながら、なんとなく声をかける。

「サークルの飲み会でオールだったんだよ」
「オール……」
「朝までってこと」
 
 大学生って、本当に別世界の人だ。前に花菜ちゃんが「坂本くんは、別世界の人」と言っていたけれど、それとは全く違う意味で、そう思う。
 八木崎さんはレジのお札を数えながら、ふっと思い出したように口を開く。

「そういや、この前の悪巧みは上手くいったんだっけ?」
「あ、”ソースNG!”の時のことですよね。……正直、上手くいった気はしてないです」
「まあ、最初から百点取れるわけないしな。やってみて、感触掴むしかないんじゃね」

 感触をつかむ、という言葉に、なるほどと思う。八木崎さんは黒か白かじゃなくて、その間を探すのが上手な人だ。これが大人というものなのだろうか。

 「てかさ」と、八木崎さんが私の方を見て言う。

「今日初めて天野さんの私服見た」
「確かに、いつも制服のまま来ちゃうこと多いです」

 黒いスウェットに、ジーンズ。どちらも、中学時代にユニクロで買ってもらったものだ。

「仮にも女子高生なんだから、もっとおしゃれすりゃいいのに。顔立ちは悪くないんだから」

 フォローのつもりで言っているのだろう。私は苦笑いでやり過ごす。

「好きな人とか、学校にいないの?」
「いないです、全然」

 両手をぶんぶん振って否定すると、失礼にも「だろうな」と呟いた。
 ついでに「八木崎さんは?」と聞くと、ぼんやり「彼女はいない」とだけ返される。こうやって肩の力を抜いたまま人と会話できて、相手にも壁を感じさせない八木崎さんは、きっと友達も多いのだろう。

 その時、自動ドアが軽快な電子音を立てながら開いた。

 制服姿の、背の高い男子が入ってくる。影が床にスッと伸びている。

「坂本くん」

 驚いて、口から漏れてしまった小声は、八木崎さんにだけ届いたようだ。

「友達?」
「えっと、クラスメートです」
「えげつなくイケメンじゃん」

 大学生がそう言うだなんて、余程格好いいんだろうな、と改めて実感する。伸びた手足。涼やかな目元。高い鼻筋。確かに全部が整っている。後から入ってきた女子高生二人が、すれ違いざまに二度見して、小声を弾ませていた。

 坂本くんが、レジへと歩いてくる。
 教室以外でクラスメートに会うのが、こんなにも気まずいとは知らなかった。しれっとレジ裏のフライヤールームに逃げ込もうとすると、八木崎さんに肩を掴まれた。

「おい、どこ行く」
「えっと、ななチキ揚げに」
「この時間、追加いらねえよ」

 慌ただしくしていると、坂本くんが目の前に立った。

「天野さん?」

 顔を上げると、汗の気配を乾かしたみたいな部活後の空気と一緒に、坂本くんが立っていた。肩にかけたバッグのベルトが、ワイシャツの生地を少しだけ引っ張っている。

「……さ、坂本くん、お疲れ様。部活帰り?休日も大変だね」
「ありがと。……天野さんってバイトしてたんだ」

 気まずすぎる。言葉が続かなくて、空気が宙ぶらりんになる。
 沈黙を埋めるみたいに、私は商品をスキャンしながら口を開いた。

「甘いもの、好きなんだね」

 坂本くんのセレクトは、ミルクティーと、ストロベリーチョコレート。
 
「まあね。……天野さんも好きでしょ?」
「えっ、あ、うん。好きだけど」
「いつもメロンパン食べてるし」

 購買のメロンパンを貪っているところを、見られていたらしい。教室ではどのタイミングで情報を把握されているかわからないものだな、と頰が少しだけ熱くなる。

「後、制服じゃない天野さん初めて見た」

 坂本くんの視線が、えんじ色のコンビニの制服を向いていて、また気まずくなる。

 会計を終えると、坂本くんは商品を受け取って小さく会釈し、出口へと向かう。
 その背中を見ていたら、思わず声が出た。

「あ、そうだ、坂本くん」

 急に引き止められたことに驚いたのか、少し目を丸くした坂本くんが振り返る。

「文化祭、主役、頑張ってね」
「……天野さんも。舞台係の仕事、一人で引き受け過ぎないように」

 その声は抑揚がなくて、初夏の風みたいに、静かに染み込んでくる。
 彼は会釈して、今度こそドアを抜けた。ガラス窓の向こうを、二人組の女子高生が視線で追いかける。坂本くんは気付いていないのか、ふりをしているのか、素知らぬ顔でミルクティーに口をつける。喉の筋が一度だけ動いた。

 自動ドアが閉まると、店内の空気が元の速度に戻る。

「……惚れた?」
「惚れてません」

 八木崎さんが揶揄うから、思わず眉間にしわを寄せて即答する。八木崎さんは「いいねえ、高校生って」と気怠げに笑った。
 


 上がりの時間。自動ドアを出ると、空は影色に沈み始めていた。
 街灯がひとつずつ灯って、伸びた自分の影を見ながら歩く。

 駅を行き交う人たちが、夕方の色を運んでいく。週末は、いつもあっという間に終わってしまう。行き交う人たちの胸の中にも、きっと色んな雲がかかっているのだろう。
 それでも、風は明日を運んでくる。甘さも苦さも、全部抱えながら。