校舎の桜も、すっかり葉が目立つようになった。
 クラスの人となり、先生達の癖、厳しいバイト先のパートさんの声……日々の輪郭が、少しずつくっきりしてきた。
 今日は、そんな日常から少し離れる一日。新入生同士の親睦を深めるための郊外合宿の日だ。

 集合場所には、クラスメートのざわめきと笑い声が満ちている。空はどこまでも澄んでいて、まるで私たちの出発を見守るように青が広がっていた。

「合宿、楽しみだなあ」

 花菜ちゃんと恵理子ちゃんと一緒に、配られた栞を覗き込む。飯盒炊飯に、大浴場、夜のおしゃべり。普段の学校生活では味わえない特別が並んでいて、ページを捲るたびに胸が高鳴る。

「バスの席も自分たちで選べたらもっと良かったのに」

 恵理子ちゃんが口を尖らせる。私も花菜ちゃんもすかさず同意した。
 三人で並んで座れたら、きっと移動時間から笑いっぱなしで、くだらないことで盛り上がって、楽しさが何倍にも膨らんだはずだ。

 けれど現実は、出席番号順。
 バスに乗り込むと、すでに私の隣の席には坂本くんが座っていた。

「お、おはよう」
「おはよ」

 坂本くんとは体育館での朝以来、まともに話していない。少しぎこちない私とは対照的に、坂本くんはいつも通りの涼しい顔だ。
 私たちの間に挨拶以降の言葉はない一方で、バスの中はクラスメートたちの笑い声でいっぱいになる。気まずさに負けて、いつの間にか私は瞼を閉じていた。

やがてバスは郊外の緑に吸い込まれて、私は眠っていたらしい。
カーブで頭が窓にごつんとあたり、思わず声が漏れる。

「いてっ」
「だいぶ寝てたね」

 横から覗き込む視線。いつもは涼しい表情ばかりの坂本くんが少しだけ笑って、自分の醜態に顔に熱くなる。

 目的地に着いてからは、みんなでワイワイ言いながらカレーを作った。草の匂い。土の匂い。少し焦げた鍋の匂い。みんなで作るカレーは、いつもより一段と美味しかった。初夏めいた水色の風の中で、クラスの声が混じり合っていて、心地がいい。



 時刻は二十時半。布団の中。窓の外では虫が鳴く。
 宿舎の部屋は少し埃っぽいけれど、非日常のわくわくが上書きしてくれる。

「恵理子ちゃんって、中二から付き合ってる彼氏がいるの!?」

 どこか他の子とは違う余裕から、なんとなくそうかも、とは思っていたけれど、改めて聞くと驚いてしまう。

「あれ、言ってなかったっけ?」
 
 お風呂上がりで長い髪を解いた恵理子ちゃんは、いつもよりも大人びて見える。
 その横で、花菜ちゃんがこっそり持ち込んだポッキーをかじる。花菜ちゃんは同じ中学だったから、当然の顔で付け加える。

「一つ上の、男子ソフトボール部の先輩なんだよね」

 聞けば、お互いの練習に対する熱意や姿勢に惹かれて、ある日告白されたらしい。
 近くにいるはずの恵理子ちゃんが、ほんの少し遠くに感じられる。

「二人はタイプの人とかいないの?」
「私は筋肉質の人が好き」
「花菜の筋肉フェチはブレないね」

 タイプの人。それって、恋愛として、好きになる人ってことだよね。
 頭の中で考える。他人をいじめない人、は当たり前すぎる。犯罪もしない。外見の好みとかは、よくわからない。
 私はまだ、全部途上だ。



 夜更け。窓を揺らす風音で目が覚める。二人はすうすうと小さな寝息を立てている。

 そっと部屋のドアを開けて、外へ出た。見つかったらひどく怒られるだろうなと思うけれど、なかなか寝つけなくて夜の空気を吸いたくなった。

 外に出ると、東京では逆立ちしたって見られないほどの星空が頭上に広がっていた。夏みたいな煌めきじゃない。春の靄が薄く紗のようにかかって、光の粒が僅かに滲んでいる。黒い紙に白い絵の具を落として、指でそっとぼかしたみたいな、柔らかい夜。

「あれ、先客がいたか」

 夜空に溶け込むような落ち着いた声。
振り向くと、ジャージ姿の坂本くんが、夜の影をまとって立っていた。

「起きてたの?」
「少し目が覚めたから」

 坂本くんはそう言って、私の一歩後ろで同じ星空を見上げる。しばらく、二人とも黙っていた。
 頭を上に向けすぎて、血が上りそうだ。私は、空を見上げながら一人呟く。

「同じ空のはずなのに、東京だとこんな風に見えないの、不思議」
「……街の明かりが多いと、大気中の水蒸気に反射して、空を明るくするから見えない」

 坂本くんの声は淡々としている。説明というよりも、坂本くんなりの感想のようにも思えた。

「手を伸ばしても、飛行機に乗っても届かないくらい遠いのに、こっちの明かりは届いて、星は消えちゃうんだね。変なの」

 手元にカメラがないから、思わず親指と人差し指でレンズを作って星空を覗き込む。心のアルバムに保存したくて、空に手を伸ばす。絶対に届かない空に、触れてみる。

「天野さんはさ」

 後ろから淡々とした声がする。風に揺れる木々を抜けて、夜風に混じっていく。

「少し変わってるよね」

 ただの感想のように、静かに、そう言った。坂本くんの真意はわからないけれど、からかう調子じゃないことは何となくわかった。

「坂本くんは、みんなをよく見てるよね」

 自然と、言葉が出る。
 春休みのあの夜。入学式の昇降口。朝の体育館。今日だって、飯盒炊飯で何度も周りをさりげなく助けていた。
私はいつも、考えるよりも先に走ってしまう。でも坂本くんは、一歩引いて、でも冷たくなくて、必要な時に、手を差し伸べてくれる。そんなところを、尊敬する。
 私たちはお互いの言葉に肯定も否定もしないまま、視線だけが星の群れを捕らえている。
 
 風が少し強くなり、前髪が揺れる。私は、手で押さえる。春の夜はまだ少し冷たくて、肩がふるりと震えた。

「そろそろ戻る?」
「うん、私は戻ろうかな。おやすみ」
「おやすみ」

 踵を返す。瞼の裏に、さっき切り取った星の輪郭が残っている。
 春の夜は、優しくぼやけたまま、ゆっくりと閉じていった。