頭を叩かれるみたいに激しいアラームの音がしつこく鳴く。布団の中で手を伸ばし、ようやく止めた瞬間、体と脳がもう一度眠りに沈もうとする。けれど、脳のどこかが途端に反応をした。「二度寝してはいけない」と。
 今日は体育委員の朝の当番。いつもより三十分早く起きて学校に行き、体育倉庫の鍵を開けて備品を確認しないといけない。

 数週間前には胸が高鳴った制服も、今ではすっかり日常の衣服に溶け込んでいる。台所では、お母さんが焼いてくれたトーストが香ばしい匂いを漂わせていた。焦げ目のついたトーストに苺ジャムをたっぷりと塗り広げ、大急ぎで頬張りながら、寝癖で跳ね上がった髪をなんとかする。

「雨衣、体操着は?」
「持ったよ」
「水筒は?」
「持った!」

 台所の奥から飛んでくる心配性のお母さんの声に、答える私の声も自然と大きくなる。
 スニーカーを履きながら、「行ってきます」と急いで声を放つ。
 玄関を出ると、いつもより三十分早いだけの朝は、街の空気も少し違う色をしていた。

 まだ人の少ない学校に着く。こうも人が少ないと足音がやけに響くし、教室へ向かうまでの掲示物なんかが目につく。
 教室にリュックを置いて、職員室へ向かう。「体育倉庫の鍵を取りに来ました」と伝えると優しそうな先生が「早くからご苦労様」と声をかけてくれて、それだけで少し救われる。

 体育館に近づくと、中からボールが弾む、小気味良い音が聞こえる。

まだ、七時半。

誰だろうと思いながらドアに手を開けると、体育館特有の木の匂いが鼻を掠める。照明は点けていないのに、朝の光が窓から差し込んで、床に淡い四角を描いている。
その先に、バスケットボールを軽やかに扱いながら、シュートを放つ姿が見えた。ボールは綺麗な弧を描き、リングへ吸い込まれていく。

 坂本くんだった。

 制服の真っ白いシャツを腕まくりして、真剣な目でゴールを見ている。少しだけ汗ばんだその横顔に、教室で見る静けさとは違う熱がある。

「……天野さん?」
 
 坂本くんがこちらを振り返って、名前を呼ばれる。変に背中がこわばる。

「今日、一限目体育だから、当番で」
「そう」
 
 その返事が驚くほど淡々としていて、一切こちらの動揺を映さない。私は、勝手に人の場所に入り込んでしまった心地が膨らんで、余計に慌ててしまう。

 高い天井が、僅かな沈黙を響かせる。間を置いて、坂本くんはボールを持ち直した。

「そうだ、ちょうどいい」

 まっすぐに私を見下ろす。視線が射抜くようにまっすぐ降りてくる。

「この前の英語の授業、何で教科書忘れたふりしたの」

 思いもしていない言葉に、脳が完全に停止する。

「え?い、いや、本当に、忘れたよ」
「その前の休み時間に、机に出してたの見たけど」

 視線に逃げ道を塞がれる。体育館の外からは、少しずつ登校してきた生徒たちの笑い声や足音が、微かに届いてくる。

 校舎全体がゆっくりと動き出す気配の中で、この場所だけが別の時間を刻んでいるように思えた。

「で、本当は?」

 坂本くんの影が、少しだけ近づいた気がした。私は下を向いて、唾を飲み込む。
 
 頭の中には、教室の真ん中で肩を竦ませた林さん。沼井先生の声。林さんへの同情と興味を含んだクラス中の視線たち。何で忘れたふりをしたのか。何でだろう。理由は、ない。ただ、胸が詰まって、見ていることができなかった。

「……まあいいや」

 返らない答えに痺れを切らしたのか、坂本くんはそれ以上追求しない。

「体育委員の仕事でしょ。備品、確認するんじゃないの」
「あ、そうだった」

 それ以上何も言わず、坂本くんが先に歩き出す。慌てて小走りで後を追う。
体育倉庫を開けると、棚の上段に置かれた、今日の授業で使う備品のケースが目に入った。背伸びをしても届かず、下に置いてあるマットの上に乗って手を伸ばす。

「危なっかしい」

 背後から伸びた影が、一瞬で視界の明度を覆う。骨張った腕が簡単にケースを取ってしまう。指先に微かに残る温度を残して、それを無造作に渡された。

「ありがとう。……練習中だったのに、手伝ってもらっちゃってごめんね」
「別に、ちょうどそろそろ終わるところだったし」

 短い言葉。けれど、あの夜と同じように、冷たくない声。
 渡されたケースを抱え直した瞬間、不意に彼の声が落ちてくる。

「これからも誰かが忘れるたびに、ああやって一緒に立つつもり?」

 影を落とす体育倉庫の下で、坂本くんの言葉だけが大きく響く。

 見透かされている。

 心臓が、どきりと、一度だけ音を立てる。問いかけというより、諭すような響き。返すような言葉が見つからなくて、私はただケースを抱え込んだまま、視線を上げられなかった。

「……なんて、天野さんの勝手か」

 途端に、背後の気配がすっと遠のく。倉庫の入り口に差し込む光が、視界を明るく染める。坂本くんは何も振り返らず、そのまま外へ歩いていった。

取り残された空気だけがざわつきながら、胸の奥に残っている。