放課後、私は波打つ心臓の上からえんじ色のシャツを羽織った。ビニールの膜に包まれたような、明るい店内。今日からここが、私のもう一つの「世界」になる。

「今日からこのコンビニに入ってくれる天野さん。私は店長の原で、彼は大学生の八木崎くん」
「よろしくお願いします!」

店長の原さんは四十代くらいで、丸顔で眼鏡、柔らかい声に安心感がある。八木崎さんは染めてから少し経っていそうな金髪で、大学生らしい軽さをまとっている。
 学校の勉強みたいに、失敗しても自分が間違えるだけ、という方程式がない社会は、初めて世界で鎧を纏わず裸になったみたいな気持ちで、ひどく緊張する。

 最初のお客さんは、スーツの男性。次は、セーラー服を着た女子高生。次。次。少しずつ、流れに乗れてきているような、いないような、そんな気がした時だった。
 次のお客さんは、お弁当を買いたいサラリーマン風の男性。

「温めますか?」
「うん、お願い」

 透明の小さな袋に入ったトンカツソース。教えられていたのに、気付かずにそのままレンジへ。
 四十秒。電子音。次の瞬間、パンッという小さな破裂音。居心地の悪い匂い。
 レンジの中で、ソースの袋が破けていた。茶色の飛沫が内側の壁にまだら模様を描いている。

「はあ?」
 
 お客さんの鋭い声が背中に刺さり、脇に冷たい汗が流れる。

「す、すみません、すぐに新しいものを……!」

 店長を呼ぶ。店長はすぐに頭を下げ、「新しいものとお取り替えします」と落ち着いた声で伝えた。お客さんは「急いでるんだから」と不機嫌に言い放ち、新しいお弁当と引き換えに足早に去っていった。

 私は、レンジの中を拭く。ソースの匂いが、しばらく指先にも鼻先にも纏わりつく。

「温める前に、付属のソースは外す。次からは気をつけて」

 先輩の八木崎さんに言われて、心を摘まれたように少しだけ痛む。店長や、八木崎さん。そして、お客さんに迷惑をかけてしまった。

「……はい。すみません」

 お客さんの足音が、いつもより少し大きく聞こえる。それでも、時間は進む。レジは鳴る。お客さんは来る。
 頭の中だけが、少しざわついたままだった。

「お疲れ様です」
 
 上がり時間。制服のシャツを脱ぐと、身体が急に軽くなる。

「今日はたくさん失敗して…すみませんでした」
「誰だって最初は失敗するよ。天野さんは、次に同じことをしないのが仕事」

 店長は淡々といって、シフト表を捲る。

「次回金曜日も、同じ時間にお願いね」
「はい。お願いします」

 自動ドアが開くと、夜風が頬に触れた。昼の春とは違う、冷たい夜の春。
 


「ただいま」
「おかえり、雨衣。バイト、どうだった?」

 キッチンからお母さんの声。

「みんないい人だったよ」
「ちゃんとできた?レジとか」
「うん。普通に、できた!」
「それは良かった」

 部屋に戻って制服を脱ぎ、ベッドに寝転ぶ。鼻の奥が、まだソースの匂いを覚えている。

 “普通に、できた”。ちょっとだけ嘘をついてしまって、心に雨漏れしたみたいだ。心配はかけたくない。でも、「上手くできた」とは言えなくて、我ながら中途半端で不器用な嘘に呆れる。

 次に同じ失敗をしないこと。普通に、言われたことをすること。ただそれだけなのに、生活はやけに難しい。
お風呂に入って、明日の教科書を準備した。部屋の灯りを落として、ベッドに寝転がる。

 枕元に置いていたカメラを手に取ると、冷たい金属の感触が指先に戻ってくる。
カメラは、ほんの一瞬でも「残す」ということができるのが好きだ。誰かの笑った顔も、見逃してしまいそうな仕草も、カメラならちゃんと残してくれる。その優しさに触れると、心が少しやわらぐ。

騒々しい一日はいつの間にか眠りに溶けて、気が付く頃には明けていた。