早くも入学式から一週間。桜の枝には葉が増え、教室の窓から見える空の青さを少しだけ深くしている。初めましての温度が溶けて、慣れない日常が、少しずつ普通の日常に馴染んでいく。
 午前の授業は、一限目から、国語、数学I、数学A、音楽。苦手な数学が二時間も並ぶこの日は、5日間の中でもトップレベルで嫌な曜日だ。

 お昼休みは、すっかり固定化したメンバーで机をくっつける。花菜ちゃんと恵理子ちゃんと、私。三人の間にお弁当箱や水筒、購買で買ったパン、小さな話題がポンポンと並ぶ。

「入部して数日経つけど、吹部はどんな感じ?」

 恵理子ちゃんが、きゅっときつく縛ったポニーテールを揺らして、花菜ちゃんに問い掛ける。購買の唐揚げ弁当を、美味しそうに頬張りながら。

「んー…。メンツは、中学の吹部で一緒だった子も三人くらいいるし、今のところ平和だよ」
「危険人物とか、もう出来上がってそうなカップルとかは?」
「いないと思うけどなあ」

 春の空に浮かぶ雲みたいにふわふわと答える花菜ちゃんに、恵理子ちゃんは「花菜らしいわ」と笑う。

「ソフトボール部は?」

 私が購買で手に入れたメロンパンを齧りながら聞く。

「うちは本気の人が多いから、練習中も空気はいいよ」
「なんだ、何かあるのかと思った」
「うちは女子だけだからね。吹部みたいに男女が絡むと、誰が誰を好きだとか、別れただとか、何かと面倒臭そうじゃん」

 そういうもの、なのだろうか。私はまだ、誰かのことが好きだとか、そういう春めいた気持ちがわからない。心の中でビー玉がコロコロと転がるような感情なのか、理科の実験みたいに“取扱注意”な感情なのか、まだ、知らない。

「誰かを好きになるって、そんなに面倒臭いものなの?」

自分でも、子どもみたいなことを言ってる気がする。けれど、今の私には本当にわからなかった。恵理子ちゃんはお箸を止めて、ちょっと大人びた笑みを浮かべる。

「まあ、雨衣ちゃんもそのうちわかるよ」
「わかるのかなあ」



 お腹もすっかり膨れて、春の陽気がポカポカと暖かくて、心地よい睡魔の波が押し寄せる五限目は、英語。英語の沼井先生は、他に誰が買うんだと思うくらいの角ばった眼鏡をかけている。板書は几帳面に揃い、声が教室の空気をすっと切る。

「昨日の授業範囲、教科書三十四ページの練習問題を解いてください。ちなみに、教科書を忘れた人は?」

 短い沈黙。クラスメートの林さんが、おずおずと手をあげる。声は消え入りそうなほどに小さい。

「……すみません、忘れました」

 林さんは、一瞬だけ沼井先生を視界に捉えて、また一瞬でノートを広げた机の上に戻した。視線も、言葉も、やり場をなくしているようだ。沼井先生の体から電流を放っているんじゃないかってくらい、教室の空気がヒリつく。

「後ろに立っていなさい」

 林さんの肩がすくむ。誰も、音を立てない。重たい沈黙が、教室を一枚の膜みたいに覆っていた。

「私もーー忘れました」

 一瞬、息を呑むような気配。林さんに集まっていた教室中の視線が、矢を放たれたようにこちらに向くのがわかる。背筋に熱が走る。

「天野もか。同じく立っていなさい」

 沼井先生が、眉を顰めた。眼鏡の奥の視線が冷たい。

 いそいそと教室の後ろに立つ。後ろからクラス全体を見渡すだなんて、教室がぐにゃりと歪曲したかのような違和感がある。

 花菜ちゃんと恵理子ちゃんが心配そうにこちらに視線を向けるから、大丈夫と言わんばかりにヘラヘラとアイコンタクトを送る。それが、あまりにも露骨で、シグナルになっていなかったらしい。「ふざけるな」と沼井先生から追加の小言をもらってしまった。

 その様子を見て、すっかり沼井先生に怯え切った林さんが、こちらを叱られた子供のように不安げにみるものだから、口の動きだけでゆっくりと林さんに伝える。
 
 「だいじょうぶ」

 自意識過剰じゃなければ、林さんの周りを纏う空気が、少しだけ綻んだ気がした。



 六限目はロングホームルームで、委員会決め。保健、放送、図書…人気どころから埋まっていく。
花菜ちゃんは「私、保健委員にしようかな」と手を挙げ、恵理子ちゃんは放送委員の座をかけたじゃんけんで見事勝利。隣の席の坂本くんは、男子たちに「お前しかいないだろ」と背中を押されて、少しだけ渋い顔をしたけれど、あまりの押しの強さに「わかった」短く答えて学級委員に決まった。
最後まで残ったのは、体育委員。役割の欄には、見回り、用具点検、授業補佐、と明らかに他の委員よりも面倒な仕事量が淡々とかかれている。私はあわよくば一人勝ちを、と祈ってじゃんけんに挑み、あっさりと負けた。

「雨衣ちゃん、やたらとついてない日だね」
「体育なんて一番苦手なのに…。ボール投げたら変な方向に行くし、ビート板がないと泳げないんだよ、私」

 口にすると、自分でも改めてひどい運動神経だなと思う。

「一番体育委員に向いてない人じゃん」
「だよね……。でも、見回りの時に色んな部活を見れるのだけはちょっと楽しそうかも」
「毎回、準備体操は一番前でやるんだよね。頑張ってね!」

 花菜ちゃんの悪意のない現実的な一言で、私は思わず「うわあ」と声を漏らしながら机の上に顔を突っ伏した。