新しい制服のスカートのプリーツは、まだ固い。鏡の前で前髪を少し切ろうか迷って、やめる。高校生活はなんでもない顔で静かに始まって、静かに終わればいい。そういうのが、いちばん私に似合う。

「雨衣(うい)!いつまで何やってるの!遅刻するわよ!」

 お弁当箱を抱えたお母さんが、痺れを切らしたように呼んでいる。リボンも、曲ってない。スカートも、大丈夫。最後に一度だけ鏡の中の私に目を凝らした。

「今、準備終わった!」

 新しく新調した、赤色のスニーカー。春の空気を蹴って、私の高校生活が、静かに始まる。

 校門の前は、人で溢れていた。桜は少しだけ散っていて、葉が風に揺れる。写真を撮る親子、部活勧誘の上級生、初めましての温度。新しい空気は眩しくて、少しだけ目が乾く。

 教室のドアの上に「1年B組」のプレート。
 掲示された席順表で自分の名前を探して、廊下側の一列目の席に着く。机の天板には薄い傷がいくつも走っていて、誰かの一年がここに掠れているのがわかる。

 先月まで嫌という程聞いていたチャイムの音とは少し異なるチャイムが鳴って、担任の自己紹介、連絡事項、学校のルール、今日しか聞かない話で溢れて、教室の空気を少しずつ、温めていく。

「じゃあ、1人ずつ自己紹介をしてもらおうかな。名前を呼ばれたら前に来てくださいね」

 担任の田中先生が、一人ずつの名前を呼んでいく。

「天野さん」

 慣れないクラスメートの頭を見下ろして、真っ直ぐに教壇へと進む。新しい教室は、なんだか歩幅の距離感が掴めない感じがして、足が地面から少し浮いているみたいだ。

「天野雨衣です。ええと、最寄りは二つ隣の駅です。趣味は写真を撮ることです。えっと……特に人を撮るのが好きです」

 面白みもないテンプレート通りの自己紹介。最後の言葉は小さすぎて、たぶん前の方の席にしか届かなかったと思う。誰の記憶にも残らないような内容なのに、出席番号が若いと、なんとなく記憶に残る気がして、気まずい。
 形式上の拍手を受けながら、私は慌てて頭を下げて、いそいそと自席へ逃げ帰る。

「次。坂本くん」

 隣の席に座る男子が椅子をひいて立ち上がる。背が高くて、横で立たれると存在感がひときわ強い。
横顔は、底が見える済んだ水みたいに鋭く澄んでいて、目尻には余計な力が入っていない。

「坂本陽(あきら)です。バスケ部に入る予定です。」

 抑えめなのに、よく響く声。教室の何人かが、わずかに息を飲む気配がする。あまりに簡潔で、思わず「短っ」と内心ツッコミを入れるけど、周囲は違った。

「やっぱりかっこいいよね」「首席らしいよ」と小声があちこちで弾けて、女子たちは目を合わせあっている。
首席。
何かで一番になるというのは、ただ努力したという一言で済むものじゃないのかもしれない。その裏にはきっと、他の誰にも見せない葛藤や、思い通りにいかない苦しさ、積み重ねてきた色んなものが隠れている。そう思うと、私は胸の奥が少しだけ引き締まる。自分は一番にはなれなくても、少しでも前に進まなければと、自然に背筋を正してしまう。

自己紹介は、流れるように順番が巡っていく。言葉の選び方や声の響き方、立ち姿――そんな些細なものから、その人の性格がふっと浮かび上がる、気がする。

明るく場を盛り上げる子。恥ずかしそうに目を伏せる子。冗談を交えて笑いを取る子。落ち着いた口調で丁寧に話す子。
色とりどりのマーブルチョコレートみたいに、それぞれが違う色を持っていて、同じ袋の中で転がり合っている。

 そんなこの教室で、これからどんな日々が待っているのだろう。想像すると、少し胸が高鳴った。



 休み時間。後ろの席の小野恵理子ちゃんという子が声をかけてくれて、そこから芋づる式に、恵理子ちゃんと出身中学が同じ子が集まる。私の机の周りに、ふわふわと新しい会話が集まる。

「雨衣ちゃんって呼んでいい?」

 明るい声の女の子が言った。髪も声もふわふわしていて、名札には「森口花菜」とあった。

「も、もちろん!」

 クラスにはもうすでにじんわりとグループができていて、不思議な感じだ。
 その中で、隣の席の坂本くんは一際目立っていて、静かなのに、存在感がある。静かだから、存在感があるのかもしれない。

「雨衣ちゃんの隣の席の坂本くん、同じ中学だったんだけど、昔から有名だったんだよ」
「有名?」
「運動できて、成績良くて、ビジュアルもあれでしょ。ファンクラブもあったらしいよ。でも告白は全部断ってたって」
「ファンクラブって、本当にあるんだ」
 
 恵理子ちゃんがゴシップに花を咲かせる横で、花菜ちゃんが穏やかに笑う。

「なんだか、別世界の人って感じだったよね」

 別世界。そうだ、別世界。隣の席に座っているからって、同じ世界にいるわけじゃない。教室っていう小さな空間は、なんだか独特だ。

 坂本くんがこちらを向いた。偶然、視線がぶつかった。けれどすぐに、彼は涼しげな視線を動かして、何事もなかったみたいに男の子同士の世界に戻った。


 
 長い一日が終わった。
 自分の鞄をとって、廊下に出る。恵理子ちゃんと花菜ちゃんは、何やら先約があるみたいだ。廊下は私たちを歓迎するかのようなかけたてのワックスの匂いと、慣れた日常の一コマみたいな靴底の音が満たしている。

 廊下を渡りきると、靴箱の前に、大きな人影が一つ。

「ねえ」

 低い声。誰かが、誰かを呼ぶ。

「天野さん」

 クラスメートに名前を呼ばれるのは、まだ慣れない。私は反射で声の元に頭を向ける。
 そこには、一番想像もしていなかった人。坂本くんが、立っていた。
 別に待っていたわけじゃない、という立ち方なのに、待っていた人の温度が空気に溶け込んでいる。

「えっと」

 なんでしょうか、と言いかけた言葉は、彼の言葉に重なった。

「馬鹿な人がいるな、と思った」
「……え?」
「駅前で飛んで火に入ったでしょ。ああいうのはさ、適材適所があるじゃん。どう見ても背丈も力も足りない天野さんが出る幕じゃないでしょ」

 脳が一瞬止まる。再びどこかで途切れていた回路が、瞬く間に繋がって、ピリリと脳に電流が流れる。

 骨張った大きな手。夜空のような漆黒の髪。直線的な筋の通った鼻。低く、落ち着いた声。

「え、も、もしかして、あの時の……」
「気付いてなかったの?俺も中学生くらいの子かと思ってたから驚いたけど」

 少しだけ怪訝な顔をして、坂本くんは背を向ける。歩き出そうとする背中を見て、急いで絞り出すように口が動いた。

「あの、ありがとう!」

 坂本くんが、顔だけをこちらに向ける。玄関の桜の花と、葉と、坂本くんの髪が揺れる。

「あの時、助けてくれて、本当にありがとう」

 やっと、言えた。目を見て言えなかった“ありがとう”が喉を通る。胸のつかえが、少しだけ解ける。

「……それに、今も、私がああいうことに突っ込んでいかないように、わざと強い言葉で教えてくれたんだよね」

 今、自分がどんな顔をしているかわからないし、ほんの少しだけ、吐き出す声が震える。

 沈黙が一瞬だけ春風に乗る。坂本くんは、静かに私の目を見た。その目は涼しいのに、受け取った言葉をどう扱えばいいのか戸惑っているみたいだった。

「……そう」

 数秒後、彼は鞄を肩にかけ直しながら、無愛想に、私の目を正面から見つめる。

「また明日」

 それだけ言って、彼は革靴の音を残して去っていく。
 
 私は、家に向かう道で、桜の花から覗く丸天井に顔を向ける。

「また、明日」
 
 誰にも聞こえない声で、咄嗟に返せなかった言葉を呟く。
 春の風が、不器用で平凡な私の制服の襟をめくった。