雨の日曜の昼下がり。コンビニのバックヤードで、えんじ色の制服に袖を通す。病み上がり一発目、久しぶりのバイトはいつもよりも少しだけ、胸の奥がざわついていた。

「お、久しぶりじゃん」

 振り向けば、先輩の八木崎さんが、スタッフルームの扉の前で、気怠げに段ボールを抱えて立っている。

「八木崎さん、お疲れ様です。先日は急にお休みしてしまって……すみません」
「休むの珍しいじゃん。風邪?」
「……はい。ちょっと寝込んでしまって」
「傘ささずに歩いてたんだろ」
「ち、違いますよ!」

 否定しつつも、あの日の川辺を思い出し、言葉がつっかえる。喉奥まで上がって来た記憶は、引っ込んでくれない。

「……まあ、似たような感じですけど。川に落ちちゃって」
「は!?とんでもなくやんちゃだな」

 眉間に皺を寄せて、ありえないと目で語る八木崎さんの軽口に、私はスナック菓子を陳列しながら苦笑するしかなかった。

「でも、突然クラスの人が通りかかって、助けてくれたんです。……それだけじゃなくて、その人の家でココアをくれたり、服を貸してくれたり。次の日も、結局助けてもらっちゃって」

 誰かに語るつもりなんてなかったのに、気が付けば口から溢れ出ていた。家でも、学校でも、まだ誰にも言葉にしていないのに。揚げたてのホットスナックの匂いと、コーヒーの匂いと、雑誌の匂いが混ざるこの店内は、外の世界から半歩外れた場所。

「へえ、そりゃスーパーヒーローだな。にしても、ただのクラスメートにそこまでするか?」

 雨も日の客入りの少ない店内で、八木崎さんがレジの後ろにもたれかかる。

「……そういう人なんです」

 そういう人なんです、坂本くんは、と心の中で付け加える。

「ふうん」

 八木崎さんは気の抜けた相槌を打ちながら、胸ポケットに入れたボールペンを取り出す。

 そのままラッシュもなく、静かなまま店内の時間は過ぎていった。 
 上がりの時間。八木崎さんはバックヤードで、入れ違いのシフトの大学生と一言交わして、それから私を一瞥する。

「帰り道で魚捕るなよ」
「捕りませんし、捕ってません」

 私は少し笑って、答える。自動ドアの外側へ出ると、空はご機嫌斜目のままで、雨粒が街路樹の葉を揺らす。私は、足早に家路を急いだ。



 月曜日も、相変わらずの雨だった。教室のガラスには、大きな水滴が張りついている。
 その日は一日、花菜ちゃんや恵理子ちゃん、それに山崎さん。クラスの子達が、心配気に声をかけてくれて、みんなの優しさに胸がじんわりと温かくなった。

 放課後。休んでいた分のノートの空白を埋めるために、図書室へ向かう。壁に貼られたポスターの角が、空調で小さくめくれては戻る。

 気がつくと、外はすっかり暗かった。
 窓の外、濡れたグランドを照らす街灯がぼんやり滲んでいる。

 教科書を閉じて、荷物をまとめて席を立つ。足音が、薄暗い廊下に吸い込まれていく。
 下駄箱まで来て、カバンの中で傘を探っていると、ふと出口のすぐそばで立ち止まっている背の高い影に気が付く。
 
 坂本くんだった。
 傘立ての前で静止している。傘立ての中には、数本の色とりどりの傘が残っているのに、坂本くんが探している傘は、そこにはないらしい。

「なくなったの?」

 思わず声をかけると、坂本くんはこちらを振り返りながら、ゆっくりと振り向いた。

「部活してる間にどっかに消えた」

 私は折り畳み傘を取り出して、カバーをするりと外した。
 傘を、開く。水色の、坂本くんにはずっと小さい傘。私は、それを坂本くんの頭上に、そっと差し出した。

「帰ろ」

 背の高い坂本くんの頭まで入るように、手を伸ばす。途端に、私の手の甲に、ほんの少しだけ手が触れる。

「えっ……いや、私が持つから!」
「天野さんが持つのは、どう考えても悪手でしょ」

 坂本くんがすっと傘を取り上げる。横に並ぶと、どうしても私の肩が彼の胸元に埋もれてしまう。
二人分の呼吸が、傘の内側に閉じ込められた。

 校門を出る。暗がりの中、街灯が濡れたアスファルトを照らす。水たまりに映った光が、歩くたびに形を変える。
 気が付けば、坂本くんの左肩がうっすら濡れていた。

「坂本くん、濡れてる」

 私は思わず傘をぐいっと押して、坂本くんの肩を覆う。
 けれどすぐに、静かに、けれど力強く押し返される。傘が先ほどの位置に戻される。

「天野さんが濡れる」

 淡々とした声が、頭上に降る。
 私は、もう一度ぐい、と傘を押した。
 返す力で、またそっと戻される。
 押しては、戻る。戻されては、また戻す。

 自分で可笑しくなって、雨の音の下で、笑いが漏れた。声が、傘の中で優しく反響する。

「この前、保健室に連れていってくれたってクラスの子に聞いた。迷惑かけて、ごめんね。ありがとう」
「別に、元気そうでよかった」

 雨の匂い。近すぎて、顔が見えないこの距離。夜の温度。
 今なら、自然に聞ける気がした。
 
「なんで、あの日、川辺にいたの?」

 坂本くんの足取りが、ほんの一瞬、わずかに縺れた気がした。
 雨は、相変わらず均等なリズムで、傘を叩いている。

「……たまたまだって」

 間をおいて、いつもの涼しい声が聞こえる。

「でも、聞いたよ。早退したんでしょ?体調悪かったのに、私、そんなことにも気づかずに、坂本くんに迷惑ばっかりかけてた」

 声が震える。

「川で助けてくれた時も、シャワーを貸してくれたのも、ココアをいれてくれたのも……次の日だって、私の不注意でまた迷惑かけた」

 言葉が、雨粒みたいに溢れる。視界の端が、少しだけ滲む。

「……体調、悪くなかったよ」

 坂本くんは前を向いたまま、静かな声でそう言う。

「嘘つけ。早退したって」
「悪くなかったけど、早退した」
「なんで……?」

 一拍の沈黙。道端の紫陽花が、雨を受けて重たそうに揺れる。
 傘を叩く音が、少しだけ弱くなった気がした。

「……天野さんが、また危ないことに首突っ込んでるかもって思ったから」

 淡々とした声なのに、胸の奥を揺さぶる。
 私は思わず、坂本くんを見上げる。

「なん、で」

 雨音。その間から、声がもう一度落ちてくる。

「そういう人だから、天野さんは」

 坂本くんは、やっぱりこちらを見ないで、そう言った。前を見たまま、歩き続ける。

「……やっぱり、私が持つ」
「え?」

 坂本くんの手から傘を取って、背伸びをして坂本くんの方に傘を傾ける。
 差し伸べた腕が震えても、私の頭が濡れても、構わない。

傘もささずに、濡れた身体で支えてくれた強さも、手渡されたココアの優しさも……その全部を返せるくらい、私も強くなりたい。

 歩幅が違うから、坂本くんはほんの少しだけゆっくり歩く。呼吸の温度までわかる距離で、足音が二つ、濡れた地面にリズムを刻む。

私の体勢が余りにも滑稽なのか、坂本くんは不意に目を細めて笑った。

 カエルたちが、雨に喜んで合唱を奏でる。濡れたアスファルトに反射する信号がキラキラ輝いて、小さな夜景みたいな、そんな、六月の月曜日。