朝目を冷ますと、昨日の雨の余韻がまだ街に残っていた。
 アスファルトにはまだ小さな水たまりが残り、そこに灰色の空が映って、しとしとと落ちる雨に揺れている。歩道の植え込みの葉は水滴を乗せて、土の匂いが鼻の奥をかすかにくすぐった。

(……早く渡したい)

 胸に抱えた紙袋を見下ろす。洗濯して、出来る限りきれいに畳んだスウェット。それと、すもものパック。
 昨日のことを思えば、こんな簡素なお礼では足りない気がして、心許なさばかりが膨らんでいく。

 昇降口を抜けて、まだ人の少ない廊下を歩く。靴底が小さな音を残す。
 教室にはまだ誰もいなくて、窓の外で降る雨が、やけに大きく存在を主張していた。春の頃の柔らかな朝とは違って、梅雨の空気は重く静かだ。

「おはよう」

 窓の外で降り続ける雨の音と一緒に、背後から不意に声が落ちる。心臓が跳ねた。
 
 振り返ると、坂本くんがいつもの無駄のない動作で鞄を肩から下ろしている。その仕草すら落ち着いていて、濡れた制服の影もなくて、昨日の出来事が一瞬嘘みたいに思えてしまう。

 声をかけようと机の縁を握った、その時。

「坂本!」

 勢いよく前のドアが開き、土屋くんが飛び込んでくる。

「昨日、来て早々に早退してたけど、大丈夫だったのかよ!」

(え……?)

 頭の中で土屋くんの声が反響した。
 早退? 坂本くんが?

「別に。もう平気」
「なんだよー、心配したんだからな」

 土屋くんの明るい声に、坂本くんはいつもの調子で短く返す。胸の奥が、感触と揺れる。
 ほどなくして、恵理子ちゃんが教室に入ってきた。眠そうに欠伸をした次に、恵理子ちゃんが私を見つけるなり駆け寄ってきた。

「雨衣ちゃん!昨日、何があったの? あっ、坂本くんもいる」
 
 恵理子ちゃんが早口で続ける。

「ホームルーム始まってすぐに、先生が“天野さんは近所のトラブルで遅刻します”って言って、その後すぐ坂本くんが体調不良で早退。私の前の席、がら空きで変な感じだったんだから!」

 脳裏に、昨日の川辺で見た坂本くんの姿が重なる。傘を差さずに、肩で息をしていた坂本くんが浮かぶ。

 坂本くんの席を見るけれど、土屋くんや、次々と教室に入ってきた男子たちに囲まれていて、私の方を振り返ることはなかった。



 二限目の地理の授業は、視聴覚室。移動教室のざわめきの中で坂本くんが一人で廊下へ出て行くのが見えて、急いで追いかける。

「あの!坂本くん!」

 大きく息を吸って呼び止めると、坂本くんがこちらを向く。涼しい目元に、頭一個分よりも高い背丈。前髪が濡れた昨日の幼さを残した姿ではなくて、いつもの坂本くんだ。

「これ……昨日のお礼」

 紙袋を差し出すと、坂本くんの指先が、袋の取っ手に触れる。

「返さなくてもいいのに。似合ってたし」

 あまりにも自然に言われて、思わず声が慌てる。

「い、いやいや!そんなわけには!」

 昨日のこと。早退って、どういうこと?ーー喉まで出かけて、坂本くんが淡々と言葉を紡ぐ。

「体調、大丈夫?」
「え、うん、全然平気。それよりもーー」

 先の言葉を出そうとすると、予鈴が鳴り響く。坂本くんの周りには自然と人が集まって、土屋くんが坂本くんの肩に腕を回す。
 声をかける隙間は、もうなかった。
 
 誰から見ても完璧で、人望があって、優しい坂本くん。少しずつ、坂本くんのことがわかってきたのに、今はもっとわからない。

 体調不良で早退したのなら、身体は大丈夫なのか。そんな中で、助けてくれて、しかも雨に濡れた状態のままにさせてしまって、昨日よりもずっと罪悪感が胸を握りしめる。それでも、坂本くんの周りには常に誰かがいて、話しかけるタイミングを逃したまま、お昼休みになってしまった。

 トイレの鏡の前で手を洗っていると、背後から高い声がかかった。

「B組の天野さん、だよね?」

 振り向くと、見たことがない女の子が二人。上履きの色が青色だから、同じ学年の子ということだけがわかった。

「え?そうです、けど」
「坂本くんのこと、好きなの?」
「えっ!?」

 唐突な言葉に、驚きで心臓が跳ねる。

「だって、さっき何か渡してたでしょ?」
「いや、それは……!」

 慌てて首を振る。けれど、二人は、それすらも照れ隠しと思っているのか、笑って肩をすくめた。

「そんなに顔真っ赤にして否定しなくてもいいよ。まあ、坂本くんはみんなの憧れの的だから、大変だと思うけどね」

 そう言って去っていく二人。
 私は鏡に映る顔を見つめる。確かに、頰に赤みが差している。

(……でも、寒い。今日、そんなに気温低いっけ……?)

 背筋が小さく震えて、腕をさすった。次は、体育だ。急いで着替えないといけない。

 五限目の体育は、バレーボール。外は雨が降っているから、体育館では男女がコートを分け合い、ボールの音と歓声が混ざり合っていた。
 真隣のコートでは、坂本くんと土屋くんが流石のプレーをしている。

 一方の私は、ボールが飛んできても反応が遅れて、変な方向へ飛んでいく。「天野さん、ドンマイ!」と励ましてくれるチームの優しさに、余計に恥ずかしくなる。

「雨衣ちゃん、ボールをよく見るんだよ!」
「凝視してるつもりなんだけどなあ……」

 運動神経の良い恵理子ちゃんが、コート端にいる私に声をかける。

(今度こそーー)

 ボールが飛んできた瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。視界が滲む。床が揺れる。

「……え?」

 気が付いた時には、身体が前に崩れ落ちていた。
 みんなの足音や声が耳のずっと遠くで聞こている。昨日、身体が冷えていたのかも。自分のことなのに、不調にも気がつかないだなんて、どこまで間抜けなんだろうと、動かない頭で情けなくなる。

 突然のことに自分の身体も動かせないでいると、遠くの足音が次第に大きく近づいてきた。 

「保健室連れて行きます」

 すぐそばで響いた声。その直後、大きな体温を背中に感じる。

「……え?だいじょうぶ、一人で」
「そんな顔色で一人で行けるわけないでしょ。……何回も馬鹿って言わせないで」

 耳のすぐ後ろで、落ち着いた声が響いて、そのまま、大きな背中におぶわれた。

 鼓動の音が身体越しに伝わってくる。歩くたびに発生する揺れとリズムは、不思議なほど心地よくて、ぼんやりと幼い頃にお母さんにおんぶされた記憶が瞼の裏に浮かび上がる。

 熱で霞む意識の中、自然と腕に力を込めていた。

「ん……」

 暖かくて、大きくて、優しい背中。柔軟剤の香りが鼻をくすぐる。

「そんなに力入れられたら、痛いけど」

  小さな苦笑混じりの声。
  その響きが耳の奥に優しく落ちて、体育館のざわめきが遠くに溶けていった。