六月の雨が、早朝から窓ガラスを叩きつける音がする。文化祭の余韻も静かに溶けていって、街も学校も、いつの間にか本格的な梅雨に包まれていた。
濡れたアスファルトは色が深くなり、歩道の縁にできた水の筋がスニーカーのつま先をかすめていく。歩道からは、土が立ち上るような、雨の日特有の匂いが鼻を掠める。
そんな時、住宅街の一角から、女性の声が雨音を割った。
「すみません! このくらいの子、見ませんでした? 黄色いレインコートで、男の子でーー」
振り向くと、若いお母さんが傘を握りしめて立っていた。濡れた髪が頬に張りつき、息がうまく続かないみたいに、言葉が途切れ途切れになる。
「幼稚園に行く前に、少し目を離したら、いつの間にか家から出ていてーー」
胸の奥がきゅっと鳴った。反射みたいに口が動く。
「私、探します」
「名前は奏太で、五歳で……」
肩が細かく震えているのに、情報だけは一生懸命に出そうとしている。私は大きく頷いて、駆け出す。
シャッターの閉まったお店の前、公園のベンチの裏、滑り台の下、ゴミ集積所の影――。
黄色いレインコートの、男の子は見つからない。交差点の信号が二度、三度と変わる。
時計は、もうホームルームが始まる直前を指していた。スマホから学校の電話番号を押して、「近所のトラブル対応で遅れます」と一言伝える。ホームルーム直前の職員室は、背後がザワザワとしているが、詳しいことを話している暇はない。私は、急いで電話を切る。
(どこ……?)
雨脚は強まっている。呼吸だけが急いで、足取りがもつれる。ふいに、川沿いの遊歩道が頭に浮かぶ。水は子どもを引き寄せる。特に、雨の日は。――私も、小さかった頃はそうだった。
歩道から外れ、川べりに降りる細い階段をゆっくり下りる。コンクリートの縁に雨が集まって細い流れになっている。川は昨日より色が濃くて、茶色い筋が混ざっている。水位はいつもより高い。胸の中で、何かが「ここ」と言った。
いた。
川の真ん中より少し手前。小さな岩の出っぱりに、小さな子どもがしがみ付いている。泣き声は雨音に飲まれて、かすれた金属音みたいにしか聞こえない。
「奏太くん!」
110――親指がスマホの画面を叩く。指がかじかんでうまくいかない。
でもーー呼んで、待って、間に合う? 次の瞬間には、その小さな手がどこかへいってしまうかもしれない想像が、胸の内側に針を刺した。
私は傘を閉じて、鞄を階段の手すりに掛けた。靴紐を引いてスニーカーを脱いで、裸足になった足裏にコンクリートのざらつきが直にくる。息を吸って、膝まで水につける。冷たさは痛みに近い。水は鉛のように重くて、一歩進むだけでも力がいる。片手で手すり代わりの草を掴む。体温が一気に削られて、奥歯が少しだけ鳴った。
「奏太くん、あと少し、頑張って。大丈夫、私がそっちに行くから」
あと一歩、あと半歩。
進むたびに、水は強くなる。やっとの思いで小さな身体に手を伸ばして、ぎゅっと引き寄せる。
「ぎゅっとして」
体をねじって、子どもの身体を胸に抱え込む。重い。濡れた服がさらに重さを増す。なんとか岸の方向へ体を返す。水が太ももを叩く。岸まで、あと二歩。一歩。
奏太くんを、岸に上げる。一筋の安堵が胸に差し込める。
ーーその瞬間、足が滑る。視界が鈍色にひっくり返る。
冷たい水が鼻の奥まで刺さってくる。息を吸おうとして、土の味がする水を飲み込んだ。身体が沈む。
(ごめん。お母さんーー)
耳がキンと鳴る。上も下もわからない。重たい布団を一気にかぶせられたみたいな暗さと圧力。目の裏から光が消えかけた、その時――。
背中と、膝の裏を、誰かの手に支えられた。
「天野さん!」
背中のあたり流れの抵抗を切り裂くみたいに、体がぐっと持ち上がる。水面を破る瞬間、空気が刃物みたいに肺に入ってきて、激しく咳が出た。視界が光に白む。
「息して。ゆっくり」
落ち着いた低い声の中に、どこか焦りが混じっている。
「吸って、吐いて。……そう」
頬に雨。まぶたの上にも、雨。鼻の奥にまだ川が残っているみたいで、痛い。
目線のすぐそばに、黒い髪。濡れたまつ毛。高い鼻筋。喉仏が上下しているのが、近すぎてはっきりとわかる。
「……さ、か……本くん?」
「よかった、生きてて」
腕の中に、私はすっぽり収まっていた。抱えられる姿勢に抗う気力はなくて、むしろ、その形に重心が沈んでいく。そこでようやく、私の身体が震えていることに気が付いた。
「奏太、くんは……」
岸の上から、しゃくり上げる小さな声と、大人の足音。振り返る余裕のない私の代わりに、彼が短く答えた。
「大丈夫。ほら、もう母親も来てる」
川べりに、傘もささずに走り込んできた母親がひざをつき、奏太くんを強く、強く抱きしめる。何度も何度も繰り返す声が、雨と一緒に震えた。
よかった、と安堵した瞬間、次第に意識が現実味を帯びてきて、いつまでも抱えられている自分の状況に居たたまれなくなってきた。
「ありがとう、あの、もう、降ろしてくれて大丈夫だから」
顔の横に、落ち着いた声が落ちてくる。
「歩ける?」
「うん。……大丈夫」
「……大丈夫じゃないでしょ」
坂本くんは私を抱えたまま、ゆっくりと階段を上がる。水の重みをすべて引き受けるみたいに、彼の腕の角度が一度だけ変わった。濡れた制服から、雨と洗剤の匂いがする。
遊歩道のベンチまで来ると、坂本くんは自分のジャケットを脱いで私の肩にかける。座る私の前に立つ坂本くんを、見上げる。そこで初めて、坂本くんが傘を持っていないことに気が付いた。白いワイシャツも黒髪も濡れて、いつもより少しだけ幼く見えた。
*
川辺から近いということで、震える身体を温めるために招いてくれた坂本くんの家は、歩いて数分の高層マンション。エレベーターに乗って11階を押した先にある玄関は驚くほど片づいている。白と黒を基調とした室内は、どこか生活感のなさすらも感じる。
「シャワーはここ。タオルと着替え、置いておくから」
坂本くんに案内された洗面所には常備のドライヤー。坂本くんの私服のスウェット。棚には整然と並んだシャンプーとボディソープ。どこまでも至れり尽くせりで、申し訳なさに心が摘まれる。
鏡に映った私はひどい顔だった。頬に水の跡が乾きかけ、目の端はほんの少し赤い。シャワーの熱が、冷え切った身体を急激に温める。指先の感覚が戻り始める。
水の底から、助けられた瞬間。もしあの時、あの場所に坂本くんがいなかったら、今頃私はどうなっていたんだろう。考えるだけで、背筋が震える。
シャワーから上がって坂本くんのスウェットに袖を通すと、腕全体がすっぽり隠れた。ズボンを履いて、ウエストの紐をぎゅっと結ぶけれど、脚の長さが違いすぎてぶかぶかだ。鏡の中の私は、誰かの大きな服を借りた子どものようで恥ずかしい。
リビングに戻ると、彼はキッチンで何かを温めていた。コンロの上の小鍋から湯気がたち、マグカップの中でココアの粉がふわっと舞う。
「甘いのでいい?」
「何から何まで、ごめんなさい。ありがとう」
両手でマグを受け取る。熱が皮膚から流れ込む。ひと口飲むと、じんわりと胃に落ちる感じがした。
冷蔵庫に貼ってあるカレンダーには連日「出張」と書いてあって、この家の生活感の薄さが、少しだけ腑に落ちる気がした。
彼は向かいの椅子に腰を下ろし、濡れた髪をタオルで無造作に拭いた。そうだ、坂本くんも雨に濡れていたんだよな、と思って、また申し訳なさが胸を掠める。
「適材適所」
「え?」
「前に言ったつもりだけど」
「……うん、また迷惑かけちゃって、ごめんなさい」
再び感謝を口にしようとするけれど、坂本くんの言葉が私の言葉に被さる。
「俺に謝ってってことじゃない。天野さんのために、やめてって言ってる」
言葉は鋭いのに、棘はない。私は頷いたつもりなのに、首の筋肉がこわばっていて、ぎこちない動きになった。
「……あの」
喉の奥に引っかかっていた疑問が、自然にこぼれた。
「どうして、坂本くんはあそこにいたの?」
学校は?なんであの時間にいたの?これから、どうするの?ーー浮かび続ける疑問が、頭の中をぐるぐる回る。
坂本くんが、長い睫毛を伏せる。
「……たまたま」
「たまたま」
同じ言葉を繰り返すと、坂本くんの唇の端が、わずかに上がった。偶然、普段はしない遅刻をして、あの道を通っていたのだろうか。
私が他の言葉を探す前に、坂本くんは椅子を引いて立ち上がった。
「そろそろ、送る」
坂本くんが時計を見る。時刻は、もう二限目が始まる頃になっていた。雨脚は、さっきより気持ち弱くなっている。
*
歩道の水たまりを避けるたびに、坂本くんの靴も同じ速度で動く。私の家の近くまで来ると、いつもの道に少しだけ安心する。
「……改めて、助けてくれて、本当にありがとう。ここまでで、大丈夫」
「送るけど」
「本当に、ここで。明日、スウェット返すね」
申し訳なさに、胸がちくりとする。
「何かある前に、俺のこと呼んで」
雨は、また強く降り始める。大きくなった雨音に、坂本くんの言葉が掻き消される。
朝から、信じられない出来事が立て続けに起きて、なんだか夢の中にいるみたいだ。溺れかけた朝。不意に現れた坂本くん。坂本くんの、家の香り。大きくて暖かなスウェット。
規則的な雨音が、胸の内側をやさしく叩き続けていた。
濡れたアスファルトは色が深くなり、歩道の縁にできた水の筋がスニーカーのつま先をかすめていく。歩道からは、土が立ち上るような、雨の日特有の匂いが鼻を掠める。
そんな時、住宅街の一角から、女性の声が雨音を割った。
「すみません! このくらいの子、見ませんでした? 黄色いレインコートで、男の子でーー」
振り向くと、若いお母さんが傘を握りしめて立っていた。濡れた髪が頬に張りつき、息がうまく続かないみたいに、言葉が途切れ途切れになる。
「幼稚園に行く前に、少し目を離したら、いつの間にか家から出ていてーー」
胸の奥がきゅっと鳴った。反射みたいに口が動く。
「私、探します」
「名前は奏太で、五歳で……」
肩が細かく震えているのに、情報だけは一生懸命に出そうとしている。私は大きく頷いて、駆け出す。
シャッターの閉まったお店の前、公園のベンチの裏、滑り台の下、ゴミ集積所の影――。
黄色いレインコートの、男の子は見つからない。交差点の信号が二度、三度と変わる。
時計は、もうホームルームが始まる直前を指していた。スマホから学校の電話番号を押して、「近所のトラブル対応で遅れます」と一言伝える。ホームルーム直前の職員室は、背後がザワザワとしているが、詳しいことを話している暇はない。私は、急いで電話を切る。
(どこ……?)
雨脚は強まっている。呼吸だけが急いで、足取りがもつれる。ふいに、川沿いの遊歩道が頭に浮かぶ。水は子どもを引き寄せる。特に、雨の日は。――私も、小さかった頃はそうだった。
歩道から外れ、川べりに降りる細い階段をゆっくり下りる。コンクリートの縁に雨が集まって細い流れになっている。川は昨日より色が濃くて、茶色い筋が混ざっている。水位はいつもより高い。胸の中で、何かが「ここ」と言った。
いた。
川の真ん中より少し手前。小さな岩の出っぱりに、小さな子どもがしがみ付いている。泣き声は雨音に飲まれて、かすれた金属音みたいにしか聞こえない。
「奏太くん!」
110――親指がスマホの画面を叩く。指がかじかんでうまくいかない。
でもーー呼んで、待って、間に合う? 次の瞬間には、その小さな手がどこかへいってしまうかもしれない想像が、胸の内側に針を刺した。
私は傘を閉じて、鞄を階段の手すりに掛けた。靴紐を引いてスニーカーを脱いで、裸足になった足裏にコンクリートのざらつきが直にくる。息を吸って、膝まで水につける。冷たさは痛みに近い。水は鉛のように重くて、一歩進むだけでも力がいる。片手で手すり代わりの草を掴む。体温が一気に削られて、奥歯が少しだけ鳴った。
「奏太くん、あと少し、頑張って。大丈夫、私がそっちに行くから」
あと一歩、あと半歩。
進むたびに、水は強くなる。やっとの思いで小さな身体に手を伸ばして、ぎゅっと引き寄せる。
「ぎゅっとして」
体をねじって、子どもの身体を胸に抱え込む。重い。濡れた服がさらに重さを増す。なんとか岸の方向へ体を返す。水が太ももを叩く。岸まで、あと二歩。一歩。
奏太くんを、岸に上げる。一筋の安堵が胸に差し込める。
ーーその瞬間、足が滑る。視界が鈍色にひっくり返る。
冷たい水が鼻の奥まで刺さってくる。息を吸おうとして、土の味がする水を飲み込んだ。身体が沈む。
(ごめん。お母さんーー)
耳がキンと鳴る。上も下もわからない。重たい布団を一気にかぶせられたみたいな暗さと圧力。目の裏から光が消えかけた、その時――。
背中と、膝の裏を、誰かの手に支えられた。
「天野さん!」
背中のあたり流れの抵抗を切り裂くみたいに、体がぐっと持ち上がる。水面を破る瞬間、空気が刃物みたいに肺に入ってきて、激しく咳が出た。視界が光に白む。
「息して。ゆっくり」
落ち着いた低い声の中に、どこか焦りが混じっている。
「吸って、吐いて。……そう」
頬に雨。まぶたの上にも、雨。鼻の奥にまだ川が残っているみたいで、痛い。
目線のすぐそばに、黒い髪。濡れたまつ毛。高い鼻筋。喉仏が上下しているのが、近すぎてはっきりとわかる。
「……さ、か……本くん?」
「よかった、生きてて」
腕の中に、私はすっぽり収まっていた。抱えられる姿勢に抗う気力はなくて、むしろ、その形に重心が沈んでいく。そこでようやく、私の身体が震えていることに気が付いた。
「奏太、くんは……」
岸の上から、しゃくり上げる小さな声と、大人の足音。振り返る余裕のない私の代わりに、彼が短く答えた。
「大丈夫。ほら、もう母親も来てる」
川べりに、傘もささずに走り込んできた母親がひざをつき、奏太くんを強く、強く抱きしめる。何度も何度も繰り返す声が、雨と一緒に震えた。
よかった、と安堵した瞬間、次第に意識が現実味を帯びてきて、いつまでも抱えられている自分の状況に居たたまれなくなってきた。
「ありがとう、あの、もう、降ろしてくれて大丈夫だから」
顔の横に、落ち着いた声が落ちてくる。
「歩ける?」
「うん。……大丈夫」
「……大丈夫じゃないでしょ」
坂本くんは私を抱えたまま、ゆっくりと階段を上がる。水の重みをすべて引き受けるみたいに、彼の腕の角度が一度だけ変わった。濡れた制服から、雨と洗剤の匂いがする。
遊歩道のベンチまで来ると、坂本くんは自分のジャケットを脱いで私の肩にかける。座る私の前に立つ坂本くんを、見上げる。そこで初めて、坂本くんが傘を持っていないことに気が付いた。白いワイシャツも黒髪も濡れて、いつもより少しだけ幼く見えた。
*
川辺から近いということで、震える身体を温めるために招いてくれた坂本くんの家は、歩いて数分の高層マンション。エレベーターに乗って11階を押した先にある玄関は驚くほど片づいている。白と黒を基調とした室内は、どこか生活感のなさすらも感じる。
「シャワーはここ。タオルと着替え、置いておくから」
坂本くんに案内された洗面所には常備のドライヤー。坂本くんの私服のスウェット。棚には整然と並んだシャンプーとボディソープ。どこまでも至れり尽くせりで、申し訳なさに心が摘まれる。
鏡に映った私はひどい顔だった。頬に水の跡が乾きかけ、目の端はほんの少し赤い。シャワーの熱が、冷え切った身体を急激に温める。指先の感覚が戻り始める。
水の底から、助けられた瞬間。もしあの時、あの場所に坂本くんがいなかったら、今頃私はどうなっていたんだろう。考えるだけで、背筋が震える。
シャワーから上がって坂本くんのスウェットに袖を通すと、腕全体がすっぽり隠れた。ズボンを履いて、ウエストの紐をぎゅっと結ぶけれど、脚の長さが違いすぎてぶかぶかだ。鏡の中の私は、誰かの大きな服を借りた子どものようで恥ずかしい。
リビングに戻ると、彼はキッチンで何かを温めていた。コンロの上の小鍋から湯気がたち、マグカップの中でココアの粉がふわっと舞う。
「甘いのでいい?」
「何から何まで、ごめんなさい。ありがとう」
両手でマグを受け取る。熱が皮膚から流れ込む。ひと口飲むと、じんわりと胃に落ちる感じがした。
冷蔵庫に貼ってあるカレンダーには連日「出張」と書いてあって、この家の生活感の薄さが、少しだけ腑に落ちる気がした。
彼は向かいの椅子に腰を下ろし、濡れた髪をタオルで無造作に拭いた。そうだ、坂本くんも雨に濡れていたんだよな、と思って、また申し訳なさが胸を掠める。
「適材適所」
「え?」
「前に言ったつもりだけど」
「……うん、また迷惑かけちゃって、ごめんなさい」
再び感謝を口にしようとするけれど、坂本くんの言葉が私の言葉に被さる。
「俺に謝ってってことじゃない。天野さんのために、やめてって言ってる」
言葉は鋭いのに、棘はない。私は頷いたつもりなのに、首の筋肉がこわばっていて、ぎこちない動きになった。
「……あの」
喉の奥に引っかかっていた疑問が、自然にこぼれた。
「どうして、坂本くんはあそこにいたの?」
学校は?なんであの時間にいたの?これから、どうするの?ーー浮かび続ける疑問が、頭の中をぐるぐる回る。
坂本くんが、長い睫毛を伏せる。
「……たまたま」
「たまたま」
同じ言葉を繰り返すと、坂本くんの唇の端が、わずかに上がった。偶然、普段はしない遅刻をして、あの道を通っていたのだろうか。
私が他の言葉を探す前に、坂本くんは椅子を引いて立ち上がった。
「そろそろ、送る」
坂本くんが時計を見る。時刻は、もう二限目が始まる頃になっていた。雨脚は、さっきより気持ち弱くなっている。
*
歩道の水たまりを避けるたびに、坂本くんの靴も同じ速度で動く。私の家の近くまで来ると、いつもの道に少しだけ安心する。
「……改めて、助けてくれて、本当にありがとう。ここまでで、大丈夫」
「送るけど」
「本当に、ここで。明日、スウェット返すね」
申し訳なさに、胸がちくりとする。
「何かある前に、俺のこと呼んで」
雨は、また強く降り始める。大きくなった雨音に、坂本くんの言葉が掻き消される。
朝から、信じられない出来事が立て続けに起きて、なんだか夢の中にいるみたいだ。溺れかけた朝。不意に現れた坂本くん。坂本くんの、家の香り。大きくて暖かなスウェット。
規則的な雨音が、胸の内側をやさしく叩き続けていた。
