文化祭の朝は、普段よりも自然に目が覚めた。劇に出ない私ですらそうなのだから、花菜ちゃんや恵理子ちゃんは、きっと私なんかでは想像できないくらい、気持ちが宙に浮いているのだろう。
 
 リビングでバターを塗ったトーストを頬張っていると、台所から母の声が飛んできた。

「劇やるんだっけ?」
「うん。うちのクラスは『アラジン』」
「雨衣は何役?」
「役はないよ。舞台係」
「えっ、ないの!? 出ればいいのに」
「裏の方が、向いてるから」
「まあ、雨衣らしいといえば、雨衣らしいなあ」
 
お母さんは私の背中にぱん、と軽く触れて、いつもの調子で送り出す。

「じゃ、思い切り楽しんできなさい」

 外へ出ると、いつもより早い足取りで、私は学校へ向かった。今日の荷物は、いつもの鞄。その中に、いつもは持っていかないカメラを忍ばせている。



 昇降口を抜けた廊下は、すでに文化祭の顔をしていた。
 壁に張り出された手描きのポスター、カラーテープ、手作りの矢印。体育館の方角から流れてくる音合わせのブラスの音階。日常の上にもう一枚、きらきらする空気が重なったみたいだ。

 一年B組の教室は、朝から演者のみんなが最終確認に励んでいた。
花菜ちゃんと恵理子ちゃんは、可愛らしい衣装に身を包み、扉際の光の下で動きを合わせている。息を合わせて立ち位置を確認する姿は、普段の二人の表情じゃなくて、舞台に立つ人の顔だった。

「頑張ってね」――言葉をかけようと前に出かけて、やめた。後で、隙を見て伝えよう、と私は教室を出た。

 私は開始までの短い空きを使って、校舎一階の模擬店をすこしだけ覗いた。
 焼きそば、ワッフル、わたあめ。そのあいだを抜ていると、ふいに後ろから呼び止められる。

「天野さん」

 振り向くと、同じクラスで、劇の台本を書いた山崎さんがいた。赤縁のメガネの奥の瞳は静かで、けれど柔らかさがあった。

「もしよければ、一緒に回らない?」
「うん、もちろん!……あのさ」

 勢いで、ずっと言いたかったことが口から溢れた。

「台本、本当にすごかった。上手く言えないけど、全員にスポットライトが当たるみたいに、出番と台詞が置かれてて……クラスみんなのその子らしさが、そのまま言葉になってる感じで……。すごく感動して、何回も読み返した」

 自分でも驚くくらい、言葉がたくさん出てきた。
 山崎さんは、少しだけ驚いたように目を見開いて、それから照れたように笑った。

「見てくれる人がいるの、嬉しいな。……ありがとう。今日、文芸部で本を売るんだ。もしよければ買いに来てくれる?」
「うん、絶対、買いに行く」

 約束みたいに、何回も頷いた。
 それから、劇の準備が始まるまでの短い間、一緒にタピオカを飲んでみたり、クラス展示を見たりした。山崎さんは、口数は少ないけれど、一つ一つの言葉を大切に紡ぐ人だ。

 文芸部の教室に行き、長机に並ぶ冊子を手に取る。紙にもインクにも、山崎さんの体温が残っているみたいだ。大切なものを受け取ったみたいな、山崎さんの心を覗き見るみたいな気持ちに、心が揺れた。



 本番の二十分前。
 舞台袖は、空気が濃い。暗幕の裏の狭い通路に、人の気配と緊張の匂いが満ちる。
 舞台上手の袖から客席を覗くと、演目のしおりを片手に楽しそうに話し合う同級生、先輩たち。その手前に、これから生まれる物語が置かれている。そんな気がした。

「雨衣ちゃん緊張するよお」

 舞台袖で、花菜ちゃんが眉を垂らす。その横でいつも明るい恵理子ちゃんの口数が少ない。

「二人とも、絶対に大丈夫ーーあんなに練習してたんだし、何よりも、二人がいるとその場がパッと明るくなって、花が咲くみたいに素敵だよ」

 私が笑うと、つられて花菜ちゃんも笑う。二人の努力も、優しい気持ちも、全部、山崎さんが書いたセリフに乗って、観てる人に伝わる。そんな気が、心の底から湧いてきた。

「――開演五分前」

 総監督の土屋くんの声が、低く入る。
 私は深呼吸を一度して、暗幕の裾を指で確かめた。



 開演。

 最初の音が、空気を切り替えるスイッチだった。
 篠原さんは光の中でさらに凛として、恵理子ちゃんの声は緊張を突き破るように伸びた。花菜ちゃんは、砂漠の星のように繊細で可憐。

 ついに、主役の坂本くんが、舞台に出る。その瞬間、客席の空気が締まるのがわかった。
ただ、立っているだけで、視線の向かう先が自然に彼の存在に集約される。喉から出る声が、広がるのではなく、面として空間に貼りつく。息の長さが、場面の温度を支配する。
 指先の角度、目線の落とし方、沈黙の扱い方――その全部で、空気がきゅっと締まる。私は袖で、心の中で「すごい」と呟いた。

 終盤、砂漠の夜の場面。照明が紫から藍へとゆっくり落ちる。
 そこだった。一人の言葉が途切れて、空気の糸が張り詰める。
 間合いの中に、微かに焦りの音が混ざる。
 舞台袖で反射神経が先に動いた。私は暗幕の影に口を寄せ、小さく、だけれど、届く声で、台本の一文を送る。

「――砂漠の夜にも、光は必ず戻る。心の向く方へ、歩いていけばいい」

 こちらを向くことなく、その子の肩が、ほとんど見えないほどに、ほんの少しだけほどけた。
 セリフが、舞台の上に戻ってくる。
 客席の誰にも気づかれない速度で、物語が一度だけ息を吸い直した。

 ついに、ラストシーン。何だか、とても短かった気がする。

 坂本くんの台詞に、最後の光が宿る。声の奥に、砂の熱が残る。
 篠原さんが笑う。光が跳ねる。
 カーテンコールの拍手が立ち上がる時、私は袖の暗がりで、感動と安堵の境目に立っていた。



 夕方が夜に向かう時間、校庭の照明が点る。
 後夜祭。ステージでは軽音部の重低音が空気を振るわせる。

 花菜ちゃんと恵理子ちゃんは、さっき部活の先輩たちに呼ばれて、笑いながら走っていった。

 私は人混みから少し外れて、校舎の中庭へ出た。新緑の木の下、ベンチに座る。
 模擬店で買ったばかりのワッフルを紙から出して、角を小さく齧る。
 砂糖が舌のさきで解ける音が、外の音楽の向こうで小さく鳴る。

 ――靴音が、ひとつ。
 熱の中心からわずかに離れる足取り。
 視線を上げると、坂本くんが、校舎の影から中庭に入ってきたところだった。
 背後の方から、違うクラスの女の子たちの声が追いかけてくる。

「さっきの演技、やばくなかった? 声かけたいけど……」
「写真も一緒に撮りたいよね」

 坂本くんは、表情を変えずにこちらへ向かってくる。

「一人?」

 夜の光で黒目が深く見える。
 私はワッフルの紙を持ち直して、頷いた。

「花菜ちゃんと恵理子ちゃんは、部活の人たちと。……坂本くんは?みんなのところ行かなくて、いいの?」
「俺は、少し涼みに」

 それはつまり、喧噪から逃げてきた、の言い換えだろう。坂本くんは私の隣のベンチに腰をかける。真横に来ると、身長の差をいつもよりも実感する。
 風が通る。靴のゴム底が、砂を少しだけ噛んだ。

「今日、本当にすごかった」

 思わず、感想が口から出る。

「坂本くんが舞台でセリフを出すと、空気が坂本くんのものになっちゃうんだよ。みんな、坂本くんが次に何を言って、何をするのか、目を離せなくなってた」

 思わず坂本くんの方を向くけれど、坂本くんはまっすぐ前を向いている。薄暗い空の下では、どんな顔をしているのかわからない。

「天野さんは、何で台本覚えてたの」

 私の指が、ワッフルの包み紙で一度だけ音を立てる。

「山崎さんの台本が、すごく良かったから。……全員にスポットライトが当たるみたいな配置で、その人が言いそうな言葉が置いてあって。感動して、何回も読み直したんだ」

 坂本くんは小さく頷いて「わかる」と言った。
 少しの沈黙。軽音のベースが、遠くで規則的に波打つ。

 私は手の中のワッフルに、もう一口だけかじりつく。
 すると、視界の端で、彼の視線がふとそこに落ちた。

「……いつも思うけど」
「ん?」
「天野さんって食べてる時、小動物みたい」

 思いもしていなかった唐突な言葉に、私は目を丸くしてしまう。

「どういう意味!?」
「そのままの意味」

 即答が少しおかしくて、笑いが喉で震える。
 
 坂本くんがさっきの話をもう一度、そっと拾い上げる。

「さっき褒めてくれたけど、俺も、山崎さんの台本だったからやりやすかったんだと思う」
「あのね、朝、山崎さんの本、買ったんだ」
「読んだら、感想聞かせて」
「うん。山崎さんにも、坂本くんにも、伝える」

 坂本くんの言葉は、明日でも、来週でもいいという距離の言い方だった。
 約束ではない。でも、糸の端を、こちらの手に残してくれるみたいな。

「坂本ー!どこ行ったー!」

 少しだけ遠くから、クラスメートが坂本くんを呼ぶ声がして、私は急いで立ち上がる。その瞬間、不意に身体のバランスが崩れた。手首に大きな手の温度が触れて、軽く支えられる。

「気をつけて」

 振り返ると、彼は何事もなかった顔で、ほんの少しだけ手を下ろしたところだった。
 喧噪の外側の静けさが、私たちの間に薄く降りる。夜風が甘い匂いを運んでくる。

「ありがーー」

 声が、別の声に切られた。

「坂本くん!」

 振り向くと、篠原さんが小走りでこちらへ向かってくるところだった。いつもの制服姿に、髪だけ舞台の余熱を残して、きれいに揺れていた。

「土屋くんが呼んでる」
「わかった。すぐ行く」

 坂本くんは私の方を一度だけ見た。
 目線が重なって、ほんの、二拍。

「文化祭、お疲れ様」

 言葉は、胸のどこかに、静かに置かれる。

 ステージの方で、歓声が上がる。
 私は残りのワッフルを、小さく齧った。砂糖の甘さが、夜の湿度に溶けて、舌にひとつずつ降りてくる。



 文芸部の冊子を、カバンに大切にしまう。
 家に帰ったら読もう。それに、こっそり撮っていたみんなの写真の現像もしないと。
 文化祭の灯りは、家に帰ってからも、まぶたの裏で続いていた。