明治恋奇譚 〜藤堂様、ミエテマスヨ!~

 胸の奥で、小さく問いかける。
 心の中には、あの日、縁側で母と並んで座っていた記憶が蘇っていた。
 母が絹の反物の端切れで、小さな袋物を縫ってくれていた日。
 それを抱きしめて眠った夜。
 父がふいにその額に手を当て、「風邪か?」と一言だけ言った、唯一の優しい思い出。

(あの一言だけを、わたしは何度も思い出して、今まで生きてきました)


「……お母様のこと、ちゃんと愛してくださっていたんですね」

 玲子の声が、小さく、けれどしっかりと空間に響いた。

「だからこそ……信じてしまったのですね。あの人の嘘を」

 隆之がぎゅっと拳を握った。

「……悔やんでも、悔やみきれぬ。だが、これ以上、お前を……千賀子の娘を……孤独にさせたくない。せめて、これからは……」

 玲子は、父の言葉をそっと遮るように、目を伏せながら微笑んだ。

「わたくし、幼き日のことを……もう一つ、覚えているんです」

「……幼き日のこと?」

「お母様がまだ居た頃、わたくしが縁側で寝てしまったとき、父様がそっと、肩に羽織を掛けてくれました」

 隆之が、はっと目を見開く。

「その手が、とても温かくて……。それが、わたくしにとって、幸せな家族の最後の記憶でした」

 玲子はゆっくりと顔を上げ、父の瞳をまっすぐに見つめた。

「……だから、今日。わたくしは、お父様と家族として、もう一度、はじまりにします」

 涙を浮かべながら、玲子は深く頭を下げた。

「これからは……わたくしへ父親として、どうか……時折で構いませんので……話しかけてください」

 隆之の肩が、またしても震える。

「玲子……玲子……!」

 父の呼びかけに、玲子は初めて、素直な気持ちで涙をこぼした。
 そのとき、廊下の方で気配を感じる。
 ふと目をやると、一将が遠巻きに二人を見守っていた。
 目が合うと、彼は何も言わず、ただ静かに頷いた。
 玲子も、微かに微笑み返す。

(きっと、お母様も、見ていてくださる……)

 白いマグノリアの花が、藤堂の庭でそっと揺れていた。