酸素カニューレの音が、一定のリズムで流れている。

「……日向先生。お願いがあるの」

理緒が目を閉じたまま、小さく言った。

「なんだ?」

「聖書って、暗唱できる?」

その言葉に、少し驚いた。
……そんなことを、患者に言われたことなんて今まで一度だって無かったから。それでも平静を装って返す。

「……有名なとこならな」

「じゃあ……詩篇23。聞きたいな。
 先生の声だと、きっと安心して眠れると思うから」

……詩篇23。
あまりにも定番で、
あまりにも残酷なリクエストだった。

“死の陰の谷を歩くとも、恐れません”
その一節を読むとき、
本当に“恐れていない”人なんているのだろうか。

「……俺でいいのか。
 俺みたいな信仰心の薄い奴の朗読聞いても、
 救われないと思うぞ」

「いいの。……先生がいい」

ほんの一瞬だけ、喉の奥が熱くなった。

こんなにも頼られるのに、
俺は何一つ“救う力”なんて持っていない。
神でもない。
ただの、無力な人間だ。

それでも、彼女の目がそう望んでいた。
だから俺は、ゆっくり息を吸って口を開いた。

「主は私の牧者であって、
私には乏しいことがない――」

言葉が、自分の口から出るたびに、
胸の奥が静かに痛んだ。

彼女の目が、少しずつ閉じていく。
呼吸が穏やかになっていく。

「……たとい死の陰の谷を歩くとも、
災いを恐れません。
あなたが私と共におられるからです」

“共におられる”
その言葉が、やけに重かった。

俺はこの子を救えない。
けれど、せめてこの夜だけは、彼女が一人じゃないと感じられるように。

そう願いながら、最後の一節を読んだ。

「……まことに、わたしのいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、わたしを追ってくるでしょう。
わたしはとこしえに、主の家に住むでしょう」

読み終わる頃には、
理緒は静かに目を閉じていた。
頬に光が落ちて、
まるで安らかな眠りに就いたみたいだった。

「……おやすみ。理緒」

声を出した瞬間、
ようやく手の震えに気づいた。

聖書の言葉よりも、
その子の静かな呼吸の方が、
よほど“祈り”みたいだった。

せめて彼女が良い夢を見られるように。
そう願わずに、いられなかった。