理緒と過ごした最後の日々の中で、忘れないと思った瞬間はいくつもある。
それでも一生”忘れられない”と思った瞬間は、きっとあの時だった。


ある夜、病室を訪れると、理緒は珍しく小説を読んでいた。
ベッドのライトの下で、薄い文庫を両手で支えている。
指先が少し震えていて、それでもページをめくる仕草がゆっくり丁寧だった。

「……懐かしいね。『銀河鉄道の夜』?」

「うん」

私が声を掛けると、理緒は顔を上げて、少し笑った。

「好きだったんだけど、日向先生に話したら、
 一般的に発売されてるのとは違う原稿があるんだよって教えてくれて。
 気になって、お母さんに探してもらったんだ」

「へぇ……知らなかった……」

理緒はページをなぞるように指で触れながら、
少しだけ目を細めた。

「昔はただ、綺麗だなって思って読んでたけど、
 ……今は、ずっと深い話だったんだなってようやく気づいた。」

一拍の沈黙。
彼女の声は穏やかだったけれど、どこか遠くの出来事を語るようで。
まるで、もう少し先の世界を見ている人みたいだった。

私はそっとベッド脇の椅子に腰を下ろした。
酸素モニターの規則正しい音が、部屋の隅で淡く響いている。

「どんなところが、深いって思ったの?」

問いかけながらも、
どこか怖かった。
答えを聞いたら、
もう戻れないような気がして。

理緒はしばらく考えるように目を伏せ、
やがて小さく、笑った。

「……カンパネルラの気持ちが、ちょっと分かる気がする」

その言葉は、
小さな光みたいに夜気の中で揺れた。
私は何も言えず、
ただページの上に落ちた影を見つめていた。