久々に、見舞いに花束を買った日のことだった。
何気なくナースステーションの前を通りすぎようとした時。

「御崎先生ー! ちょっと噂本当ですかー?
 検査技師の椎谷さんと食事行ったってー!」

看護師たちの笑い声が、廊下に弾けた。
思わず足を止め、手に持っていたお見舞いの花束を少し握りしめる。

日向さんが困ったように笑っているのが見えた。
白衣の袖を軽く上げ、肩をすくめて言う。

「おいおい、もう噂なってんの?
 待って。病院内、怖すぎんだろ」

「えー! だってずっと彼女いないって言われてた御崎先生がですよー?
 しかも検査部随一の美人の椎谷さん!」

「いやいや、ただの同僚。飯行っただけだって」
笑いながらそう言う声は、普段より少し明るく響いていた。

笑い声が弾けた。
それは病院という無機質な空間に、やけに馴染んでいて。

……ああ、そうだ。
彼はずっと、私とは違う世界の人だったんだ。

同じ病院にいても、
同じ空気を吸っていても、
そこに私の居場所はない。
そう思ったら、急に手が冷えた。

理緒の病室の前に立つと、
花束の包装がまた小さく音を立てた。
指先が、かすかに震えている。

日向さんは、素敵な人だ。
穏やかで、誰に対しても誠実で、
だからこそ、誰かに好かれることなんて不思議でもなんでもない。

……同僚の女性を誘うことだって、その人が当然誘いに応じることだって、容易に想像できる。
――なのにどうして、息が詰まるんだろう。

ノックすると、中から理緒の明るい声が返ってきた。
私は笑顔を作って、ゆっくりドアを開ける。

背中越しに、まだ日向さんの笑い声が残っていた。
まるで、もう二度と届かない場所から響いているみたいに。