立ち上がろうとした瞬間、
理緒の細い声が、俺の背中を引き留めた。

「……ううん。日向先生。お願い。
今日は、まだいて。先生にも、聞いててほしいの」

その言葉で、胸の奥がざわつく。
嫌な予感がした。
彼女がこれから何を言うのか――もう、分かっていた。

理緒はゆっくりと息を整え、
制服の少女の方へ視線を向けた。

「――桜。あのね」
その声は、驚くほど落ち着いていた。
「もうね、出れないと思う。病院から」

時間が止まった。

彼女の言葉が空気を切り裂くように響いた瞬間、
世界の音が遠ざかっていくのを感じた。
呼吸の仕方を一瞬忘れる。

(……やめろ。まだ言うな)
心の中でそう叫んでも、
声にはならなかった。

中野さんの顔は真っ青になっていく。
今にも崩れ落ちそうな彼女を、俺はただ見ていることしかできなかった。

「……何言ってるの?」
かすれた声。
冗談だと笑ってくれと願うような、祈りに似た響き。

けれど理緒は、ゆっくりと首を横に振った。
その瞳に、迷いはなかった。

中野さんは震える声で俺を見た。
「……日向さん……?」

何かを言わなきゃと思った。
けれど、言葉が出ない。

“医師”としてなら言える。
「そうだ、理緒はもう長くはない」
“人間”としてなら、絶対に言いたくない。

二つの自分が喉の奥でせめぎ合い、結局、どちらの言葉も出てこなかった。

沈黙だけが、答えになってしまった。

彼女の目が見開かれる。
その瞬間に浮かんだのは、驚きでも悲しみでもなく、
――“裏切られた”という表情だった。

(違う。そうじゃない。俺は君を、騙してなんか……)

けれど、どんな言葉もこの沈黙を覆せなかった。

理緒の方を見ると、
彼女は静かに、苦しげに、それでも穏やかな顔で目を閉じた。
それがまるで、“もう大丈夫”と友人を諭すようで。

時計の針が一度だけ音を立てた。

その音が、
“終わりの始まり”を告げているように思えた。